閣下の様子がおかしいことに気づいたのは、今日の朝方のこと。
いつもなら、あまり考えている事は読めないが、穏やかな空気を纏っている閣下。
今日は不穏な、というよりは不吉な空気を纏っていたのだ。
いえ、それよりもむしろ…全体的に覇気がない。そういう表現が最もしっくりくる。
隊員たちも不思議そうな表情。彼らもいつもと違う空気を感じ取ったのだろう。
閣下が不安なのだと私は思っていたのだ。
「どうかなさったのですか?」
「…………いや、何でもない」
心配になって私は思い切って尋ねてみた。けれど、返ってくるのは「何でもない」という言葉だけ。
その態度にますますおかしいと感じた。
余計に不安になって閣下に感づかれない程度に時々表情を窺ってみることにした。
一応夕方頃まで、という期限を設けて。
夕方まで窺ってみたところ閣下の表情自体は普段と比べても何ら変わらなかったのだが、瞳の中の光が沈んでいたように見えた。今思えばそれが、閣下の押し隠した気持ちを代弁するものだったのだろう。
——恐らく、辛いという気持ちを。
「閣下?お疲れならそう言ってくださいね」
そう、声をかけた。
声に反応したのか、上司は振り向いて、きょとんとしたような顔で私を見つめている。
この時点で私が声をかける事がそんなに意外だっただろうか?
やがて、「越権行為だと思うのですが」と静かに前置きしてから静かに声を出す。
「将校であるとはいえ、あなただってまだ23歳で…どこにでもいるような普通の人間なんですから、様々な物で疲れることもありますよ。……もし、どうしても辛い時は何からでも逃げたって良いと思います。それはあなたが今こうして私たちに許して下さっていることですし…私たちだってあなたにそれを許したいと思っているのですから」
口から出たのは、きっと何の気休めにもならない言葉だ。
何故私はこんな言葉しか言えないのだろう。
…私は導くもの…”ベアトリーチェ”ではなかったのか?
ああでも、私は”ベアトリーチェ=クルティス”などではなく、”レナス=ベアトリクス=アーヴィング”という人形なのだ。
脳裏をよぎる自己嫌悪。
けれど、何故彼は零れそうになる涙を必死で無理矢理抑え込もうとしている?
私は再び口を開いていた。何故。
「そう言えば、閣下はこれまでこの部隊の隊員たちが死んだ時もお泣きになりませんでしたよね。ちょうど今なさっているような、泣くのを必死で堪えていらっしゃるような顔をなさっていたのを今でも覚えています。…ですが、泣きたい時には泣いたって構わない…それは誰にだって許されると思うんです」
それに反応したのか、そうではないのか分からないが、ぴくりと上司の瞼が震えた。
そして目から何かがほろりと零れていった。
これが、涙というもの?彼は何故泣くの?
「ですから、今は泣いても構わないでしょう。抑え込んでいたら後が辛いですよ?時間は痛みを加速させていくものらしいですから」
泣く。それが、彼の今一番恐れていることだったのだろう。
だから、必死で耐えようとした。瞼をしっかりと閉じて、落ちる涙をこぼさまいとして。
その姿は今にも消えてしまいそうにも見えてしまう。
「だけど、俺は…………泣いてはいけないんだ」
「…………私が言いたかったのは、今まで申し上げたことと直接関係はしないんですが、『閣下は人形であろうとする必要なんて全くないんですよ』ということです。閣下は何でも我慢したり、ため込んでしまう必要もない」
「…………もしそうでなかったとしても、何もかも全てを受け入れなくてはいけない。…それが今の俺の肩書きに課せられた役割だから」
「もし何かを受け入れたくないなら、跳ねとばそうとしたっていいじゃないですか。肩書きなんて何の意味も成しませんよ。自分が自分であるというアイデンティティを保つためにはね…まぁ、それはいいとして」
彼は私と同じなのだ。
勝手な大人たちによって鍵に、人形に仕立て上げられ、『鍵』の役目を果たさせる為に、軍という舞台にたった一人で立たされた彼。神によって存在を作り上げられ、神の大切な存在=ベアトリーチェの代役として、導き手として、この世界にたった一人で送り込まれた私。同じだと思っていた。だから軍で上司、部下として出会ってから間もなくして、勝手に親近感を持った。出会いがあったから、現在の私がいる。彼が現在を作ってくれたといっても過言ではなかった。
しかし、絶対的な違いがあった。
彼は何かを生み出せる。何かを変えることができる。今彼を取り巻く状況も、彼の意思次第で大きく変わるのだろう。何故なら、彼にはそれだけの力がある。
それに対して、私は何も生み出せない。何かを変えることもできない。
できるのは、ただ受け入れることだけ。
…何故、私と彼との間には絶対的な違いがあるのだろう。
「自分が生きるには、逃げることってきっと大切なんですよ。人生が完璧じゃなくたって、もっと自己中心的だったって、むしろ格好悪くたっていいじゃないですか。——もちろん、誰かの腕にすがったって」
でも、共通点なら分かる。
私と同様に、彼には彼自身の素直な気持ちを抱きとめてくれる人がいなかったのだ。
だけど、それを抱きとめてくれる人は必要。
それがなくてはやがて心が壊れてしまう。
ならばその人が見つかるまで、それまでは私がなってあげたい。
同じ境遇を抱えたものとして。
ああ、本当に消えてしまいそう。
駄目、貴方はこの世界の為には欠かせない人だから、此処で消えては駄目。
私は「本当に越権行為なのですが」とか言いつつ、遠慮がちにだが背後から椅子の背を抱き込むように閣下を優しく抱きしめた。閣下は制服の袖で必死にあふれる涙をぬぐった。そして出そうになる声を殺し、ぎゅっと瞼を閉じた。
レナスは願う。
真なる神に救済を。
自分の腕の中でぽつりぽつりと彼の心からの悲鳴ともいうべき言葉を発しながら静かに泣くクリストフ=N=L=クロイツァーというこの人間がもっと人間らしく生きていくことができればいい、と。彼女の知る、彼を待ち受ける道が彼にとって乗り越えられるようなものになることを。
そして何より、自分の敬愛する彼がいなくなってしまうことのないように、と。
“waltz in the DARK”なんか無くなってしまえばいいと思った。
悲しみの渦巻く中で踊るワルツなんかに興味はない。
レナスは一つ、彼女の知る神様に願い事をすることにした。