夢を、見ていた。
「あなたは何をしたの!?」
「簡単な事さ、見ればわかるだろう?」
女は嘆いた。
一方で、男はそう言って笑った。
「——君はここで僕と過ごすんだ。その体が朽ちた後でもずっと、ね」
「だからって——」
「そこまでやる必要はなかったって?」
「———っ」
傍らにあるものを愕然とした表情で見た女は言葉には出せなかったものの、彼を振り仰いではっきりと頷いた。
「だからこそやる必要があったんじゃないか」
男はただ微笑んだ。
傍らには、ピクリとも動かない男がいた。
女はその男をゆすって起こそうとするが、彼女の力で体が揺れるだけで何の反応も示さない。
「もう二度と目を覚まさないようにしてある、起こそうとしても無駄だよ」
「……」
「君はその体には戻れない。君にはその体はふさわしくないんだ。………この空間ならば君の体は昔のままで構築できるけどね」
「あ、あなたの弟たちは…?」
・・・・
「ああ、そんなのもいたね。まあ、彼と一緒に眠っていてもらおうじゃないか。あいつらは正直鬱陶しかったよ、それはあいつらも一緒だろうけどね」
「……酷い」
「…ああそうさ、僕は酷い男だ。けれど、それは君だって解っていたんじゃないのかい」
女はどう返していいのか分からず、ただ俯いた。
□□
その夢を半年ほどずっと見ていた。
何も手につかず、虚しさばかりが心を占める——————…
「失礼します、大佐」
勝手知ったる様子でイングラム少佐は補佐官執務室に入ってきた。
手には書類のようなものを持っている。
「どう、されましたか」
「あなたのサインが必要なので、報告書にサインください。明日までです。…あ、あと溜まっている書類ください。片づけるんで」
「―――…」
レナスはその言葉にようやく動かされるようにして、首を左右に巡らせた。左右に未決裁の書類が山のように積んである。それに対しても何も考えられない。
少佐は小さくため息をつき、レナスの目の前に持ってきた書類を目につくように置くと左右の書類の山を1つずつ運んで行った。書類の山を持っていったかと思うと、もう一度部屋に現れた。彼もだいぶ痩せた気がする。
「いい加減にしてください。いつまでしょげているんですか、あなたは」
腰に手を当てて、少佐は口を開いた。
表情には苦いものが混じっている。
「あんた、一部隊の命を預かっているんだって自覚あるのか?」
「――――」
「シュトッフェルショックから早いこと立ち直ってもらわないと、この部隊…潰されるぞ」
「――――」
「使い物にならない部隊なんて存在意義がないからな――」
上官に対する敬語も抜けてしまい、苦いものをさらに濃くした顔で少佐はレナスを見下ろす。
その瞳は怒りと侮蔑で燃えていた。それらは確実にレナスへ向けてのものだった。
一方でレナスは返す言葉が見つからないでいた。彼の言葉は正しいと、それは分かっているのだが……。
「シュトッフェルを忘れるか?部隊を潰されるか?どちらかをしなきゃいけなくなる」
「――――?!」
…シュトッフェル?
最初は「誰だ?」と思った。
けれど、すぐに理解する。それは「クリストフ」の愛称であることを。なぜ彼が閣下を愛称で呼ぶのかは理解できないが……。
閣下を忘れる?そんなことできはしない!パッとそういうことは頭をよぎる。
ならば部隊を潰されるか?そんな事…許されない…。
(この部隊は正直な話、私には荷が重すぎる……。けれど、閣下の帰る場所がなくなってしまうから、潰すわけにはいかない。でもどうすればいいの?)
「――そうでなきゃ、あんたが立ち直ってシュトッフェルを取り返すしかないんだ。いくらでも協力はする」
あんたにならそれができるんだ、あんたにしかそれはできないのだと、少佐は強い口調で言った。
モノクロームの世界が色鮮やかに見えた。空虚な心に一筋の光が差した心地がした。
ああ、そういう方法があったのか―――…
□□
イングラムとレナスは間もなく協力関係を結ぶことにした。
レナスはシュトッフェルの状態の確認を、イングラムはレナスが処理すべき事務仕事と業務指示の一切を引き受けることになった。
そしてレナスはようやく覚悟を決めたのか隊長執務室に居城を構えることとなり、イングラムは補佐官執務室に荷物を移動させた。
上の2人が変わったと思ったのか、隊員たちも少しずつ以前のような状態に戻りつつあるのを感じた。
□□
だれか、たすけて。
私が救いたいと願ったこのヒトは、もうどうしようもない処まで行ってしまった。
このヒトを、誰か———レナス!
□□
「はい?」
彼女はぱっと顔を上げた。転寝をしてしまっていたようだ。
今しがた、いつもの夢から覚める直前に聞こえた声の主は?
真っ先に思い浮かんだのは同じ顔をした、けれど双子でも姉妹でも無いもう一人の彼女だった。現在失踪中とされている、かつての上司の中にいたという《ダンテの理想の女性》の名を持った彼女。
今の声は幻聴だったのだろうか。転寝をし、幻聴を聞くほどまでに私は疲れていたのだろうか。私の自問を無視して、今にも泣き出しそうな声はなおも続く。
“ごめんなさい、レナス。私、ベアトリーチェよ…貴女が私と同位体だからこそ、こうして話しかけているわ…ごめんなさい、ごめんなさい”
「謝ってばかりいては何があったのか分からないでしょう。何があったというんです?」
“あの人は、イヴリンはもう私が知っていた彼ではなかったのかもしれない…”
ああ。そういうことか。
彼の記憶を持たないがゆえに彼女は知らなかったのだ、”彼の変貌”を。
彼の剥き出しとなった願望を。
彼女の中で在りし日の彼はさぞかし美化されていただろう。
在りし日の彼は願望を内に潜めて、笑っていたのだから。
「今はディレクターズエリアですか」
“ええ、私だけではなくシュトッフェルもだけれど…”
…シュトッフェル?
最初は「誰だ?」と思ったけれど、すぐに理解する。
それは「クリストフ」の愛称であることを。この間も同じことを思った。
そして、彼女の言葉は私の仮説を決定づけた。彼女が元上司の中にいた事を考えると、ベアトリーチェと共にいるのは、あの人しかいなかったのだ。
「やはり、あの人もですか」
“あの人は、もう二度と目を覚まさないようにしたと言っていた…”
声が詰まっている。もう泣くに泣けない状況なのだろう。
彼女とは相似であり合同であり、尚且つ対極な存在であるが故に私には分かる。
私は目を伏せ、彼女の姿を捉えようとした。だが、ぼんやりとしか描出できなかった。
…ああ、そういうものか。
「イヴリンは、あなたをいつまでも手元に置いておきたかったのですよ。その為ならば、何でもする人です。…昔からね。知らなかったでしょう?」
“…知らなかったわ、あの人はそんな素振りしなかったから”
「基本的にあの人は演技のうまい役者なんですよ」
そう、ベアトリーチェを欲するがあまりに今までに付き合っていた女を捨て、彼女に近づく男をいかなる手段で以て排除し、彼女に演技巧みに近付いて、常に穏やかな自分だけを見せていた。まあ、彼の異父弟たちは彼女に、他の男が持っていたような”そういった類の”興味を持たないのでその例外だったが。
そして今度も同様に、イヴリンはあの人を覚める事ない眠りに追いやったのだろうが。
彼にしてみれば、それだけの事。生前、彼女に近づいた男たちと同類の扱いをしただけなのだ。
しかしながら、少なくとも私にとってはその仕打ちが許せないわけである。
「まあ、でも出来得る限りやってみましょう」
我ながらあっさりと、安請け合いをする。
多分、私が彼を許せないからなのだろう。
許すと言ってもどのようにして許せばいいのか、彼のあらゆる事を考えてみても、皆目見当もつかない。
私はあの人の失踪以来、何をしてきた?
いや、イヴリンに負けた事に打ちのめされ、何もしてこなかったに等しい。
ではそれは何を招いたか?
……事態の悪化でしかない。
「まずはどうしましょうか?」
“ここから、連れ出してもらえないかしら…?”
「分かりました、試みましょう」
「隊長、ただ今戻りました」
私の前に立っていたのは黒髪の青年。彼のフルネームはセシル=ミカエリス=ウィンストン。
髪の色や眼の色こそは違えども、その容貌はあの人に良く似ている。いや、アビゲイル=ミレニア=イェーガーも、アリス=マリア=ローズも、セレスト=ミシェル=フォンテーヌもそうだ。彼らは皆あの人の血をひいている。
それもそうだ、彼らはあの人の改造複製体だから。
闇に廃棄された計画では、使い捨てのディレクターズエリアへ通じるゲートの鍵。そのスペア。
もう、だいぶ慣れてしまった。新体制。あの人がかつて座っていた椅子に私が座る事。新しく与えられた階級と役職。あの人が関わった、”After Apocalypse”を含めた全ての事象が無かったかのように振舞われる日々。
「おかえりなさい、ウィンストン中尉。ターゲットとは接触できましたか?」
「問題はありません。伝えることは伝えてきました」
「…そう」
それだけを伝えて中尉は退室する。一人残されて、私は考えた。
中尉の伝言によって、《もう一人のあの人》はどんなリアクションをしただろう。
甚大なショックを受けただろうか。それとも、赤の他人に近い弟は知らないと冷めた態度だっただろうか。《もう一人の彼》である彼女には、できれば前者だった事を願いたいものだ。彼を識る者として。
画面に目をやる。
表示されているのは既にサイン済みの報告書。送信も済ませている。
その報告書のファイルを閉じて、別のプログラムを起動させる。
これをいじるのも久しぶりだ。
「前回はあなたに負けましたが、今回ばかりは負けられないんです」
だからね。
今度は彼の思考回路をトレースして、用意周到に事を進めさせてもらおう。
まずは基本のバックアップ。延々と続くファイアーウォールを蹴破り、管理者権限を一時的に乗っ取ってデータを探る。
基本的には何も変わってはいない。防御の甘さも、プログラムの組み方の癖も。
ただ、おかしな記述がある。
それは”No.(記載なし)イヴリン・フェレス”の項目だ。プライオリティは最優先で何かを予約している。…条件付け?その条件を読んでみる。”No.903231292054778339の座標が変更される場合、No.(記載なし)のデータをNo.903231292054778339に書き加えてプロテクトする。No.000000000000000001″のデータがNo.903231292054778339に書き加えられた場合も同様とする”
調べてみると、No.903231292054778339はあの人。No.000000000000000001はベアトリーチェだ。あの人の項目にもベアトリーチェの項目にも同じような予約は入っていなかった。
ああ、そういう事。
彼らを引き戻したら、もれなく余計なものまで付いてくるわけだ。
前回のお返しだ。条件付けを消去し、予約を解除する。これで先ず上書き。
彼の脳機能の極端に低下した状態を回復させ、眠った状態に移行させている時に気が付いた。
遠隔操作によってイヴリンはよほど彼を苛めていたということを。
極限まで苛め尽くせば、彼はイヴリンの手をそれ以上煩わす事なく死んでいただろうに。何故そうしなかったのか。
そう言えば、イヴリンの目的は彼の世界を作ることだった。
その為には既存の世界を一度壊す必要がある。
昔には、尤もらしい理由をつけて、”世界を滅ぼす”とゲートを介してひとりの科学者に警告をしていたか。その後対抗策として、科学技術の粋を集めて彼と彼の姉は生まれたのだった。という事は、彼を苛めたのはやはり恐怖心からか。イヴリンの事だ、更なる恐怖を感じたか、ベアトリーチェに気付いたかのせいでその手を止めたのだろう。
そして、今消去したばかりの条件を考えてみると、彼は世界の構築を諦めたのか。
いや、そういうわけじゃない。彼にとっての世界とは、ベアトリーチェと彼の弟たちのいる世界だ。だから、目的を達成するにはその三人がいるあの人の中へ潜り込めばいい。
あの人を連れ戻してからの、これからの生き方はあの人が決める事だ。あの人に任せよう。取り敢えず、私は私の仕事をする。妄執に駆られた亡者はもうそろそろ眠るがいい。
後はベアトリーチェのデータをあの人のデータに書き加え、座標を変更するのみ。
どこがいいか。私が確認できるように、執務室隣の部屋にしておこうか。
ああ、そうそう。もう二度とこういうことが起こらないように誰にでも強固なプロテクトを掛けよう。そして、このプログラムを破棄しよう。
もう、私たちはイヴリンの手から離れて各自で歩いても良い頃合いの筈だ。
こちら側から干渉しない代わりに、あちら側からも干渉されない。
それがきっといいのだ。
私はそう信じる。
イヴリンという神の作った、マザープログラムという道標の無い世界を私は望んだ。
羽が生えたかのごとく手はキーボードの上を滑らかに動く。
最後の一文字を入力し終えて、バックアップをとり、エンターキーに人差し指を載せる。
…さあ、さようならの時間です。イヴリン。
そして、おかえりなさい。
迷いなく、人差し指に力を込めた。
その直後、マザーがハングアップしその時の対処法通りにマザーもろともプログラムが消去された。