No Title Phase:02

Phase:two

「またなのかな…?」
先程の悪戯めいた笑みや綺麗な笑みはどこへ行ったのか。
体の底からこみあげてくる不安と疲労感が彼の顔に表れてきている。
さっきから噴き出してきそうな冷や汗はどうにかならないものなのだろうか。
あまりにも強烈すぎるために彼こと、クリストフ=N=L=クロイツァーは思わず「またなのか」と口に出してしまい、頭痛のする頭を抱えた。
更にどっと押し寄せてくる不安と疲労感を感じて少しばかり憂鬱になる。

無意識のうちに、きゅっと首にかかった鎖—父親のものの方—を握りしめる。
一瞬の眩暈の後、手の中の鎖がしゃらりと小さな音をたて、彼を励ましてくれているような錯覚を覚える。僅かな間をおいて、「きっと大丈夫だ」と誰かに言われた様な気がした。
それは昔から聞こえている声なのだが、声の主が「誰」なのかは分からない。
その事は聞こえ始めた時から気にしないようにしている。

あの人は何故またここに来たのか。何時もの事ながらさっぱり分からない。
いや、実際には分かっている筈なのだが、どこかそれを受け付けようとしない自分がいた。
それでも、その人の待つ部屋の前まで来てしまったからには行かなくてはならない。
心なしか震える指で、ドアの脇にあるインターホンを鳴らす。
『入りなさい』
部屋の中の人物はすぐに返事を寄越してきた。
彼が部屋の前へ来ていた事位気付いていたのかもしれないと思うと、舌打ちの一つでもしたくなる。
「…失礼します」
相変わらず続く不安の所為で、ドアへ足を踏み出すのを躊躇いそうになりながらも、どうにか自らを奮い立たせて必死で足を動かす。そうでもしないと、足が止まってしまいそうだから。
それに、上手く話せるだろうかという不安が過ぎる。
そんな彼の気持ちなど知る筈のないドアは機械的にエアロックを解除して、彼を部屋の中へ導いていく。
□□
俺にとっての最後の肉親のうちの一人は、客用の部屋のソファでゆったりと身を横たえていた。
部屋に入ってきた彼を目に留めると、その人は緩慢に上半身を起こす。
彼によく似た、黒い髪に青い瞳。
ただ、その人の髪には若干の白髪と焦げ茶色の髪が混じっていたし、青い瞳は突き抜けるように明るい、空のような青色だった。

その人は彼に向かって微笑みかける。
「……ああ…久しぶりだな、シュトッフェル。随分と大きくなったじゃないか」
「ええ、伯父上こそ…。お元気でいらしたようで何よりです」
「もう何歳になった?」
「そうですね……23歳になりました」
「…年月は早いものだな」
目の前には、老いはそこかしこに感じられるものの、記憶の中の姿と特に大きな狂いは見当たらない伯父。相変わらず、「クリストフ」という自分の名前を愛称にした「シュトッフェル」と呼んでいた。
その中で一番目立つのは若干苦しそうな様子だろうか。
伯父のあまり変わらない姿にかすかな安堵を覚えると共に、それ以上の張りつめた糸のような緊張感を覚える。

この劇は、いつまで続けば終わるのだろう。
クリストフは全身が既に疲労を訴えている中、そう思った。
伯父は、自身の弟—彼の父親—によく似た笑みを浮かべて手招きをする。
彼はそれに抗う事ができないかのように、どこか覚束無い足取りで伯父の元へ歩を進めていく。
「シュトッフェル」
「はい、何でしょう」
「私が堅苦しいのは嫌いだというのは知っているだろう?どうか、普通に話してほしい」
「………ヴォルフ伯父さん、久しぶり。体の調子はどう?」

「どのくらい会っていなかったかね?」
「10年、位かな……いろいろあったから」

「……ところで、あれは?」
伯父が悪戯っぽく笑い、昔のような口調で話しかける。
それを起点として始まったのは、どこかしら噛み合わない、違和感を感じさせる会話。
しっくりこないそれに、クリストフは己の喉が急速に渇いていくのを感じた。
当の伯父、ヴォルフガングは、気にも留めずにどこか懐かしそうに笑んだままだった。

だが、その右手と瞳は何かを求める子供のように忙しなく動く。
「ヴォルフ伯父さん、どうしてこんな指輪を持ってたのさ?」
クリストフが首にかけていた鎖を外し、伯父の目の前に、その鎖に通された父親の指輪を掲げて見せる。ヴォルフガングはどこか嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、振り子みたいに揺れるそれを受け取った。そして、指輪を大切そうに、愛おしそうに両手で閉じ込める。
まるで、小さな子供が自分の宝物をその小さな手で守ろうとしているように。

この伯父はどこかで、この指輪の主はもう戻らないと気付いているのかもしれない。
伯父の仕草を見てぱっと頭に思い浮かんだ考えを一蹴した。
(……いや、そんなはずはない。伯父は忘れているから。)
「そうだ。ヴェルナーが私に預けて行ったんだ。『これを汚したくない。きれいなままにしておきたいんだ』と言って、いつもどこかへ行く前に…。いつも帰ってきたら真っ先に私に会いに来るのに、…それなのに、今回は来ないんだ。毎日きれいに磨いて、ずっと待っているのに。なあシュトッフェル、ヴェルナーがどこに行ったのか知らないか?」
先ほどまでの嬉しそうな表情から一転、ヴォルフガングは声に悲しみを滲ませた。
伯父の仕草は、今にも泣き出してしまいそうな子供のような感じがする。

クリストフは伯父に気づかれない程度に小さな溜息をついた。
毎度の事で分かり切っているはずなのに、溜息が絶える事はない。分かりきっていることなのに、毎度のことながら期待を抱く、そんな諦めの悪い自分に辟易しているのに。
微かに走る、胸の痛み。
きっと、この痛みも期待も、もう苦しみたくない、失いたくないという願いなのだろう。
クリストフ=N=L=クロイツァーと名前の付けられた人間の中にいる、彼らの。
「やはり」という諦めと「元に戻って欲しい」という一縷の希望が彼の中で葛藤して、混ざり合ったものが小さく開かれた口から漏れ出して、空気に解けていく。
伯父のヴォルフガングは、彼自身の弟でありクリストフの父親でもあるヴェルナーが死んだ事を覚えておらず、きれいさっぱり忘れ去っている。彼は十代前半に両親を亡くしており、最後の肉親である10歳ほど年下の弟二人を守らなければならないと思って努力してきた。
己は結婚もせず、二人の弟のためだけに己の人生の大半を費やしてきたのだ。
己の人生を捧げたと言っても過言ではない、その大切な弟の一人が死んだと聞かされた時、彼はショックのあまりに錯乱して倒れてしまった。ヴォルフガングは「弟の死」という事実を受け止めきれず、結果として精神に異常をきたしてしまったのだ。

精神に異常をきたしていたのは何もこの時からではなかったと聞いている。
伯父の弟のうち亡くなった方、つまりは彼の父親から。
彼は、かつて17年前—弟が亡くなる年よりずっと前—に弟の妻エヴァンジェリン—つまりはクリストフの母親—が死んだ時に初めてパニックを起こしてしまい、「彼女の存在」をすっかり記憶から消してしまったらしい。確か、彼に初めて会ったのが6歳の時だったから、クリストフの双子の姉であるクリスティアーネは彼に会う前に消息を絶ってしまった。
義理の妹が消え、実の弟が「失踪」し、姪の存在を知らないヴォルフガングにとっての「家族」は最早クリストフと彼の一番下の弟だけだ。
ヴォルフガングがクリストフを「クリストフ」として見てくれる今はまだ良い方だ。
一時期—ヴェルナーが死んだ、10年前の事だが—は、彼をそのまま若くしたような息子のクリストフを「ヴェルナー」だと思い込んでいたのだから。
誰かが囁く。

もう疲れているんだから、伯父など切り捨ててしまえばいいじゃないか。
その方が楽だろ?
果てしなく甘い誘惑。

その声のする方へ手を伸ばそうとすると、また別の誰かが囁く。

下手に伯父を切り捨てようとするのは止めろよ。
お前に出来る筈がないだろ。
冷たい制止。

苦しい選択だった。………どうすればいいのか分からないが故に。
また、苦し紛れの見え透いた嘘をつくしかない。かわいそうな気がするが、伯父のためだ。
見え透いていようがいまいが、もし嘘をつかなかったら、きっとこの哀れな伯父はもう一度壊れてしまうような気がした。
(それは、誤魔化しているだけに過ぎないんだよな?なあ、”俺”?)
誰かが囁いた。
自分でも分かっている。その嘘は伯父を守るためのものではなく、自分を守るためのものだと。
それでも—結局は嘘を重ねるしかなかった。
そんな方法しか見つけられない自分に、激しい嫌悪感を感じる。
「伯父さん」
「何だい?」
「父さんはな、今とっても大切な仕事を任されてて、頑張ってるらしいんだ。だから、今は帰れないんだってさ」
「そうなのか、大切な仕事を任されるようになったのか……それは良かった」
いつもの通り、放たれた虚言。

それを聞いて、悲しそうな顔から一転、まるで自分の事であるかのように喜んでいるヴォルフガングの顔を見ると、クリストフの中にふつふつと罪悪感が浮かんでくる。
そして、不意に「情けない」とは思うのだが、泣きたくなった。

ごめん、伯父さん。俺はあなたに嘘をついてるんだ。
俺があなたに何かを言うたびに、俺は数えきれないくらい、たくさんの嘘をついてるんだ。
だからさ、俺にそんな、子供みたいに純粋な表情を向けないでくれよ。
その度に嘘を重ねていく自分の汚さが思い知らされるから。
ついつい本当の事を告白してしまいたくなってしまうんだ。
でも、本当の事を知ったら、事実を受け入れきれないあなたはきっと壊れてしまうから。
ごめんなさい、伯父さん…。

…………でもさ、本当は父さん、死んじゃってるんだよな。
クリストフは、伯父に聞かれてはならない事を小さく呟いた。
すると、伯父は嬉しそうな表情をいまだに崩さないまま、小首を傾げた。
「何か言ったかい?」
穏やかな声音で放たれた言葉。
いつもの、応酬。
だが、このアンバランスな平穏はいつ崩れるのだろうか。
案外近いうちに崩壊の兆しが現れるかもしれない。
もっとも、それがどういう形で崩壊していくのかは分からないけど。
貫き続ける嘘を疲労し続ける頭の中で反芻しながら、クリストフは直感に近い何かがそう訴えているのを感じている。
「………いや」
クリストフは静かにかぶりを振った。その怜悧な顔に抑えきれなかった悲しみを湛えて。
伯父は彼の表情の変化にも気付かず、ソファから立ち上がる。
「さて、そろそろ外出できる時間も終わるし、私は帰るよ。ヴェルナーに会ったら、私の所へ来てくれるように伝えてくれないか」
「分かった。ちゃんと伝えるよ………………必ず」
「頼んだよ」
そして、伯父はクリストフの頭をくしゃっと一回撫でて、ドアの向こうへ消えていった。
その背中を見送った後、クリストフは力が抜けたかのようにソファへと座りこんだ。
そこに残る伯父の体温がいやに感じられた。
「…………あーくそッ」
クリストフは何かを破壊したい衝動に駆られたが、ギリギリで思い留まり乱暴に髪をかきあげる。
その際に左耳に着けていた小さな銀色のプレートのピアスを手が巻き込んで、耳に僅かな痛みが走ったがそれには目もくれない。
先ほどまでの感情が嘘のように消えた表情に、瞳には隠しきれない苛立ちが際立っていた。
その目は彼の心情をそのまま表現していた。
「何で…………、何で俺達がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ………っ」
苛立った青の瞳にはじわりと涙が浮かんでいた。
それは誰に向けてのものだったのだろうか?
その答えは彼にも分からなかった。

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