Phase:twenty-one
作戦開始まで、あと4日。
ほぼ全ての作戦は構築済みになっていた。
ほぼ準備も完了していると聞いている。
もう少し具体的に作戦を練り上げる必要があると思うが。
「どうかなさったのですか?」
「…………いや、何でもない」
先程から右側頭部付近に柔らかく突き刺さるような何か…おそらくは視線だろうものを感じる。そんなにトゲトゲしていなかったから良かったものの、それでも時間が経てば少し嫌気がさしてくるもので、その源を探ろうとしたが、頭の中が未だに混乱している所為なのか碌に集中できずじまいだった。
昨日までに悟ったことを必死に否定しようとしている気持ちと、それでも受け入れた方が楽だと思う気持ちが頭の中でせめぎ合っていた。結局、昨日は前者が辛くも勝利を収めたようだ。
さて、今日はどちらが勝利するのか。
朝っぱらから集中力の欠片もない頭で俺はぼんやりと考えるのだった。
——きっと、今は俺の人生で2番目か3番目位に辛い時なんだろうな。
とりあえず、できることなら逃げ出したかった。
「閣下?お疲れならそう言ってくださいね」
凛とした女性の声がした。
振り向いてみると副官が俺を心配そうに見つめている。
やがて、「越権行為だと思うのですが」と静かに前置きしてから彼女の淡いローズ系の唇が静かに音を紡ぎだしていく。
声音は独特のやわらかさのあるメッゾソプラノ。
淡い色合いにやわらかな声。それらは彼女によく合っていると思った。
「将校であるとはいえ、あなただってまだ23歳で…どこにでもいるような普通の人間なんですから、様々な物で疲れることもありますよ。……もし、どうしても辛い時は何からでも逃げたって良いと思います。それはあなたが今こうして私たちに許して下さっていることですし…私たちだってあなたにそれを許したいと思っているのですから」
きっと彼女は気の利いた気休めのつもりで言ったのだろうけれど、心に沁みわたる言葉というのはどうしてこんなに温かいのだろうか。俺は彼女のその言葉のうちに込められた作りものではない確かな温かさに、泣きたくなった。泣きたくなったのは覚えている限りでは10年振りだ。じんわりと目頭が熱くなっていく。けれど、俺は人形でなくてはならないということを思い起こして、零れそうになる涙を必死で無理矢理抑え込もうとしていたら再び彼女の声がした。
まるで、ちょっとした子供の粗相を咎めるかのような声音で、口調で。
「そう言えば、閣下はこれまでこの部隊の隊員たちが死んだ時もお泣きになりませんでしたよね。ちょうど今なさっているような、泣くのを必死で堪えていらっしゃるような顔をなさっていたのを今でも覚えています。…ですが、泣きたい時には泣いたって構わない…それは誰にだって許されると思うんです」
ぴくりと瞼が震えた。
なんで、彼女の言葉はこんなに温かいのだろう。
俺は何も感じない人形でなければならなかったのに。
今、何故こうも切なくて嬉しいような複雑な気持ちになっているんだろう。
そんな葛藤を無視して、彼女の言葉はじわりと心の中に沁み込み、何かのひび割れをゆっくりと埋めていくのを彼は感じた。
それを示すかのように、目から何かがほろりと零れていった。
ああ、なぜだか頬が熱い。
「ですから、今は泣いても構わないでしょう。抑え込んでいたら後が辛いですよ?時間は痛みを加速させていくものらしいですから」
もう止まらない、目から零れるものが止まらない。
今まで貯め込んでいた分が全て溢れだしてしまいそうだった。
それが、彼の今一番恐れていることだった。だから、必死で耐えようとした。
「だけど、俺は…………泣いてはいけないんだ」
「…………私が言いたかったのは、今まで申し上げたことと直接関係はしないんですが、『閣下は人形であろうとする必要なんて全くないんですよ』ということです。閣下は何でも我慢したり、ため込んでしまう必要もない」
「…………もしそうでなかったとしても、何もかも全てを受け入れなくてはいけない。…それが今の俺の肩書きに課せられた役割だから」
「もし何かを受け入れたくないなら、跳ねとばそうとしたっていいじゃないですか。肩書きなんて何の意味も成しませんよ。自分が自分であるというアイデンティティを保つためにはね…まぁ、それはいいとして」
クリストフの隠している内面を見透かすかのような、ナイフのように鋭いはずなのに優しいレナスの言葉が彼の頭の中をリフレインする。
そして彼の本来持っていた内面を優しく抉り出していく。
言葉には力がある…”言霊”というものの話を聞いたことがあった。
まさか自分がそれを体験することになるとは思わなかったけれど、確かにその言葉には偽りはなかったように思う。
「自分が生きるには、逃げることってきっと大切なんですよ。人生が完璧じゃなくたって、もっと自己中心的だったって、むしろ格好悪くたっていいじゃないですか。——もちろん、誰かの腕にすがったって」
レナスが「本当に越権行為なのですが」と言いつつ、遠慮がちにだが背後から椅子の背を抱き込むようにクリストフを優しく抱きしめた。恋愛感情の込められていない、けれどこの世界で一番信頼できる彼女のその腕に抱かれたままでクリストフは制服の袖で必死にあふれる涙をぬぐった。そして出そうになる声を殺し、ぎゅっと瞼を閉じた。
今、戦争なんていう本当にくだらないものや、世界各地の絶えない地域紛争でたくさんの軍人、あるいは民間人が死んでいく。戦争で死んでいく軍人や紛争・テロ活動を鎮圧しようとして現地に向かい彼らの抵抗に遭って死んでいく軍人たちならともかく、本来なら攻撃されない対象であるはずのジャーナリストや一般市民だって狙撃されたり、拉致されたり、最悪の場合自爆テロなどで殺害されることもある。明日死ぬのは自分かもしれない。
そんな情勢の中で人々の心は次第に冷めていって。
今まで以上に恐怖におびえて自分の身を守るために自己中心的になって。
絶望的になって、それらの反動で逆に享楽的になった。
だけど、まだこんなにもふわりとしたあたたかい心をもっている人もいる。
まだこの世界も捨てたもんじゃないと思った。
それを、あるいはそれを構成する人々を失ってしまうのが惜しいと心の底から思った。
ただの任務だったはずの”waltz in the DARK”というものはやがて、彼のその思いを打ち砕くようなものになっていった。
また、彼は静かに涙しながら思う。
父親が遺した出生の秘密というデータに記されていた、近い将来自分を待っているという運命から逃げ出したっていいのだろうか?ともかく、一筋の光が遠くに見えた気がした。
クリストフにとってその光が救いなのか、あるいは終焉への導きなのかは分からなかったけれど。