Phase:thirty
side-E
イヴリンはキーボードを操っていた。
前回失敗した、最大の障害である『彼』に損害を与える作戦を実行するつもりで、とあるプログラムを完成させていた。
——許せなかった。
たかだか1個の人間の受精卵だったくせに、神であるイヴリンに反抗するための切り札として遺伝子操作を受けて。
何でも出来るように仕組まれて。
ENFORCER…執行者という、意味深な二つ名まで付けられて。
挙句の果てにはイヴリンに反抗する為の切り札として育てられた人形であるはずの彼が、イヴリンの”ベアトリーチェ”を奪い去るに等しい行動をしたのだから。
出来る事ならこの手で破滅させてやりたい。その為になら何だってする。
そうできる力があるし、覚悟もある。失うものは何もなかった。
だから、今まで”神”として『彼』にした仕打ちは彼の感情を大いに反映させたものなのだ。『彼』を消すことで、きっとこの溜飲は下がるし、新しい世界を構築できる。
彼は凶暴な衝動に駆られている。
………自らが作り上げた彼の『不幸な』生い立ちに、何処か憐れみを覚えつつ。
そう言えば、と彼はふと考えた。
どうして、いつも完璧なはずの『彼』への作戦は尽く失敗していったのだろうか。特に、ここ最近。
色んなケースを頭の中に思い浮かべてはみたものの、大部分は特に問題は無さそうに思えた。結局思い当たったのは、妨害者がいる事。PREVENTERか、あるいはDEFENDERか。
軽く眩暈がした。全く、厄介な存在が出てきたものだ。
(滅んでしまえ…ENFORCER。君はこの世界に必要無いんだから…………まずは、ゆっくりいたぶりながら君の精神を破壊させてもらうことにしようか?)
眩暈を振り払い、そして彼はにやりと口端を上げて凶暴な笑みを浮かべてみせた。
□□
side-Ch
世界がまた、ぐらりと揺れた。
バランスを何とか保とうとしているが、それも限界に近い。
レナスがいてくれれば良かったと一瞬だけ思ったが、彼は単独でベルリンにやってきて、彼女は軍本部で特殊任務部隊隊長代理をしている。
———許さない
何に対してそう思ったのかも分からない。
力が抜けていく体。目線が落ちつつブラックアウトする視界。不定期の持病だと気づく間も無く、クリストフはあっさりと意識を飛ばした。
遠くに声が聞こえる。
………ごい…だわ…40度……………?
けど、……そんな…………なか…………
彼、…………ょう?………………………………?
……、…………れん………………………………………………
その声をBGMに、彼は落下していった。
水中に沈んでいくかのようにゆっくりと。瞼は重く、体は動かない。ただ、何かに引き寄せられるように落下していく。
おかえりなさい、と誰かが言ったような気がした。
『おかえりなさい、シュトッフェル』
何処からか伸びてきた腕に優しく抱きとめられる。そして優しく甘い香水の匂いに包まれる。
(誰だ?)
視線を下にずらすと、目が開いた。
柔らかそうなウェーブがかかった長く、淡い金髪。
その持ち主と目が合った。彼の持つ深い青の瞳と似ているようで違う、空色の瞳。
その目の周りを縁取る、髪と同色の長い睫毛。何処か自分に似た顔。
ふわりと微笑んでいる。クリストフは無意識のうちに悟った。これは、母親だと。
(いや…彼女は死んだ、筈だ。だから、こんな所にいる筈がない。ならば、幻影か)
内心でそう思い起こして、態と彼女を抱き締め返して彼女に見えないように冷笑を浮かべる。そして言葉を発した。
『誰だ、貴女は』
すると、彼女は最後に声にならない声でクリストフの耳元で何かを囁いて、その姿はかき消えた。
彼はその場からやや後退しつつ、気味が悪いとひとりごちた。
間もなくして、代わりに現れたのは何故かベアトリーチェ。
『あぁ、無事だったのね…』
彼女は茶色の髪を揺らし彼に駆け寄って、彼の母親と同じように彼を抱きしめた。
彼を包み込んだ匂いでさえも母親の幻影と同じだった。彼は一瞬だけ身を強張らせて、彼女に離れるように言った。
…嫌な記憶がよみがえる。
それでも彼女は彼の言葉を拒み、それどころか体をより彼の体に押しつけた。
体が密着した状態に近いまま、瞳を潤ませて。何処かしら媚びたような色を含むねっとりとした視線でクリストフを見上げた。
そして彼女が白い太腿を晒け出し、しなやかな蛇のように彼の体に足を絡みつけているのを。
恐怖を孕んだ冷や汗が頬を伝っていくのを。眉を顰めて必死で耐えながら彼は違うと直感した。
□□
side-E
(ははっ、凄くイイ顔だ!)
イヴリンは狂喜した。
彼の目の前のモニターには、女に抱きつかれた『彼』の歪んだ顔が映っていた。
顰められた眉、瞳孔収縮、顔面蒼白、冷や汗、強張った体。いずれも『彼』が恐怖を感じている事を示していた。
『彼』のトラウマの元となった女性のデータをベースに、『彼』の母親やベアトリーチェのデータを重ねて作り上げた仮想データは予想以上の効果を生み出したようだ。それが『彼』の恐怖に繋がって、彼の狂喜にも繋がった。
(いっそ、このまま壊れてくれないかな)
そう言って、イヴリンは妖艶に微笑んだ。
彼が望んでいるのは『彼』の存在の消滅だった。
それが果たせたら、この世界は再構築することだってできる。
そして、近いうちに自分自身がベアトリーチェによって救われる。彼は盲目的にそうだと信じている。
事の成り行きを見ようと、再びモニターを注視した。
□□
side-Ch
『あの女は、イヴリンが作り出した幻。………気付かなかった?7年前のあの日から、彼が貴方をいつも排除しようとしていた事に』
『7年前?』
ならば、気付くはずもない。
まだ、父親の遺したデータでさえ発見していなかったのだから。
クリストフが違和感を感じたベアトリーチェは先を続けた。
『私のコピーが貴方のいた部隊にやって来た時から…彼の排除作戦は始まっていたらしいわ。…今回の幻もその1つらしいわね』
コピー…レナスの事だろうか?
妙な齟齬が生まれているような気がする。
ああ、彼が知っているベアトリーチェはレナスの事を『もう一人の私』と呼んでいた。
それに気が付けば、あとはさまざまな部分から相違点を導き出せる。
彼女がクリストフを抱きしめるという事は無かった。
彼女は香水のような匂いを纏っている事など無かった。
ましてや、媚びたような色を含んだ視線など向けられるはずもない。
彼らはそんな関係ではないのだから。
『君は誰だ?』
不意に問いかけた。
いつの間にやらクリストフの両頬に手を当てていたベアトリーチェと思しき人は目を瞬かせ、真意を測りかねるといった表情になってこう返した。
『私は、貴方の知るベアトリーチェ、でしょう?』
『…………いや、君もまた幻影だ。そうだろう?』
彼女の表情が完全に凍った。
それから間もなくして、彼女の口角が急に上にあがった。
背中に寒気が走る。
この表情の変化パターンに見覚えがあった。
嘗ての義母…マリーベル=ディクソンと全く同じパターンだったからだ。
『……………っ!』
今度は怖気が走って、頭痛がする。
思わず、彼女を力任せに突き飛ばした。
意外にもあっさりと突き飛ばされた彼女の体。
彼女は床に座り込んだ姿勢で嗤っていた。
『ふふふふふ………………あははははははっ!!貴方は私の導きを拒否するのね!?だったら、滅びてしまえばいいわ!!!』
□□
side-E
イヴリンはにやりと笑った。
(…そうさ、滅びてしまえばいい)
その言葉こそ彼の望みそのものだった。
彼は、敢えて”ベアトリーチェ”の元となったベアトリーチェの幻影にその言葉を言わせた。
さて、どういう反応をするか。
経過を見守る。
□□
side-Ch
眩暈が酷くなり、世界がたわんでいく。
それに伴って思い出される昔の記憶。
溢れる哄笑。
痛くて、痛くて。でも耐える事しかできなくて。
全てを奴らの思う存分蹂躙されて、何もかも奪われて。
全てを憎んで。
(だから、これ以上は思い出したくなかったんだ)
でも憎み切れなかった。
この世界の全てを憎んでいたにもかかわらず、自分に笑いかけてくれた人がいたから。
憎しみはゆっくりと和らいだ。
この身を焼くような激しい憎悪を抱く、その代わりに。
(もう、こんな事にならないようにと………………自分に誓ったはずだ)
そう心の内で呟いた瞬間、眩暈が無くなった。
クリアになった視界。クリストフは反射的にスーツの下に隠されていた拳銃を引き抜いて、据わった眼で『彼女』を睨みつけて照準を合わせた。
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side-E
(何!?)
ガタリと音を立てて、椅子から体が浮き上がった。
まさか、こんな事になるなんて思いもしなかった。
予想しうる行動パターンはまだあったらしい。反抗的な態度をとられる事は想定の範囲外で不覚にも驚いてしまった。
(畜生ッ………クリストフ=N=L=クロイツァー!)
こみ上げる怒りをそのままにキーボードとモニターを思いっきり殴りつける。
力に耐えきれず壊れる機械たち。
だが、この青年はいつもイヴリンの予想を超えていた。
10年前でさえも、もう立ち直る事は不可能な位に痛めつけられたと思っていた。
だというのに、青年は何処にそんな力があるのか不思議な位の力で立ち直った。
何度も壊そうとしても、彼はそれ以上の力で全てを受け入れては乗り越えていた。
(————この僕が、彼を壊す事はできないというのか!?)
不意に青年の事が恐ろしくなった。
恐らく、さっきまで『彼』が感じていたものと同種の、本能的な恐怖だろうと思う。
きっと恐怖で顔も歪んでいるはずだ。
もしかすると『彼』以上に。
(だけど、僕は神だ!あんな奴の事を恐れるまでもないじゃないか!!…あいつだって、ただのヒトなんだからッ!!!)
恐怖心を必死で「自らが神である」というプライドで打ち消そうとしてもできなかった。
結局どうしようもなくなって、彼は椅子に掛け直し、壊してしまったモニターを呆然として見つめた。
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side-Ch
『導きなどいらない。俺は自分で進んでいける………』
鋭い殺気、凍てついた鈍い光を深い青の瞳に宿して拳銃のトリガーを引いた。
狙いを過たずに彼女の額に銃弾は打ち込まれ、彼女は崩れ落ちながら消えていく。
だが、銃痕だけを額に開けて血などの体液は出なかった。
それらを彼は冷めた瞳でずっと見下ろしていた。
『何のつもりだ……………イヴリンとかいう奴の仕業か?』
そうひとりごちると、今度は上に引っ張り上げられるような力が働いて、彼の意識は上へと浮上していった。
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side-E
(…ああ、気付かれていた)
辛うじて壊れていなかったスピーカーから『彼』の声が聞こえた。
誰の仕業なのかを『彼』は既に知っていたのだと分かり、イヴリンは諦めが籠もった溜息をついた。
手を打つにはもう手遅れだったのかもしれない。
PREVENTER/DEFENDERやENFORCERの存在がれっきとしたものになってしまった今は、もう手の施しようがなかった。
そして、椅子の上で膝を抱え込んだ。