No Title Phase:33

Phase:thirty-three
叔父に検査を受けるよう、懇願するかの如く言われると、一瞬躊躇った後で承諾の意を伝えた。
すると一息つく間もなく、ジュネーヴ行きの航空機に乗せられた。

今から研究所に向かうのだと聞かされた。一刻を争う事態だとも聞かされた。
生まれてから24年間紆余曲折して、生まれた場所だと言うべき場所…スイス・ヌーシャテルにある第12生命科学研究所へ戻る、と言う方がいいのかもしれない。

別にそんな事はどうでもいいが。

「間もなく、航空機が離陸します」というアナウンスの後、グイと引っ張り上げられるような力が起こって、離陸した。
上昇していく感じが手に取るように分かる。
「杞憂であればいいが…いや、奇跡が起こっていればいいが」
耳に慣れたドイツ語のアナウンス。その後に流れた、英語やフランス語のアナウンス。どれも聞き慣れている言語だ。
いつの間にか予約されていた座席はファーストクラス。
一部賑やかな声もあるが、それ以外の静けさが却って曇天のような重々しささえ感じる空間の中。

隣の座席で腕を組んだ叔父が漏らした一言に、クリストフは反感に似た感情を覚えた。
その言葉が頭の中で渦を描くように一瞬のうちに駆け巡る。

頭の中でエアハルトが皮肉に笑って言った。
(奇跡?…そんなものがあったとしたなら、俺たちは今の人生を歩んではいなかっただろう。普通の家族がいて、普通の人生を送って。普通に笑って。普通に怒って。普通に泣ける。それが俺たちにとってどれだけ眩しくて、どれだけ焦がれたものだったか彼は知らないのだろう。仮に奇跡があったとしても…、)
「奇跡なんか、信じない。俺はいつも裏切られてばかりだから」
気付けば口にしていた、子供っぽくも聞こえる本音。

それを聞いてもなお、きっと人は言うのだろう。生まれた事自体が奇跡なのだと。
だから奇跡を信じていられる。例え自分が奇跡を起こせなくとも。いや、奇跡を信じているからこそそんな事が言えるのだ。
「だけど、お前は今こうして生きてられる。それは奇跡じゃねぇのか?」
ほら。やっぱりそう言うのだ。
奇跡を信じているから。奇跡を信じられるような、普通の生活を送ってこれたから。
精神的に追い詰められたり、絶望した経験を持たないから。

しかし、クリストフは一度暗闇の中で絶望した。
光のない中で監禁されて、義理の両親は彼の体を頑丈な鎖で雁字搦めにして、悪意で貫いた。
何度体を汚されようとも希望を壊されようとも、「救われる」という奇跡が起こるのを願って、待って、待って、待って、待ち続けた。
だが、待てども待てども奇跡という願いは叶わなかった。
そして何度も生を呪い、何度も生きるのを放棄しかけた。それでも体は懸命に生きようとした。生きるために最低限の栄養を補おうとした。折れた心はもはや奇跡を諦めているのに、貫かれた体はまだ奇跡を求めていた。
が、やがて体もようやく奇跡を諦めた。絶望し何も考えなくなってから、手遅れになってから救いという名の奇跡はやってきたのだ。

それでも。
(手遅れになってからやってくる救いなど、もはや奇跡ではない)
結局、それ以来心は暗く曇ったままで生きてきた。ちょうど、数刻前から窓の外に広がっていた曇天のように。何も自分を助けてくれないのだと、自分を助けられるのは自分でしかないと諦めていた。
「———さあ?」
だから、奇跡に対するポジティブな面での関心の無さをそのままニヒルな笑みに乗せて、言葉を返した。
「さあ?って……お前なぁ…」
「奇跡を信じたいなら信じておけばいいんですよ」
奇跡なんか信じたくないなら信じてなくてもいいでしょう?
言外にそういう意味も込める。そして自分もその1人だという事も。
「で、どうなんだ?」
「———それは俺にも分かりませんよ。ですが、生を呪った事のある人間に…死を望み死に焦がれた人間にそんな言葉が響くと思うんですか」
答える事を要求されて多少きつめな口調になった。
それは別に構わなかったが、ただ感情を下手に荒げて怒鳴るのは避けたかった。
感情を荒げて怒鳴っても、無駄なものは無駄だと身に沁みて分かっているから。
それは奇跡が起こらない代わりに学んだ事。
「さあな。それは人次第だろけどさ………まぁ、それはいいとして…そうだな………」
「………何が言いたいんですか」
「んー、いや、お前ってさ意外と奇跡を惹きつけ易いのかもなって思ってさ」
「……奇跡に見捨てられた人間が?」
「お前ってさ、本当に凄い人生を送ってきてるけどよ……それがオレらの所為だとは重々承知しているつもりだが…それでも、こうして生き抜いてきてる。特にディクソンの件だけどな。普通なら死んでてもおかしくないのにお前は生きてんだぜ?それで奇跡を引き寄せやすい奴なんかな、と」
ディクソンの下にいる間、両手足を拘束されてても舌を噛み切って死ぬ事だってできたはずだろ?
なのに、お前はそれを考えてはいなかった、そうだろ?
それもある意味では奇跡だ。

そう言ってコルネリウスは笑う。
この場の雰囲気に相応しくないあっけらかんとした笑い声までもが広がり、重かった空気を打ち消していく。
(ああ、そうか。舌を噛み切る、という選択肢もあったのか……何故思いつかなかったんだろうな。…確かにある意味じゃ奇跡だ)
そう思って皮肉っぽく笑う。
その気付きは過去の彼にとっての『奇跡』に繋がるのかもしれなかった。
ここでの『奇跡』は崩壊につながる。即ち、彼の存在の崩壊。死。

もっと早く、10年位前に舌を噛み切ってしまう事を思いついていればよかった…と思った。だが、そこで『奇跡』が起こらなかったからこそ、今こうして生きて、そして気付けた。

奇跡と崩壊は表裏一体の関係なのだ。

そう言えば昔…父親がまだ生きていた頃、この手の本を読んでいた事があった。
本にどんな事が書いてあったのかさえもはっきりと思い出せる。

『奇跡が起こり得るのは世界が生み出した矛盾があるからに他ならない。例えば、この世界のどんな物にも存在する自我。世界に支えられている存在の持つ自我が時として自然法則を超越すると、世界が干渉によって世界自身以外の、自我を持つものの意思で歪められる…あるいは自我を持つものが世界との相対位置を変える。干渉の結果、何かしらの強制力をもって発現する概念により、世界はバランスを失う。バランスを失うとはいっても、あくまで危機的ではないレベルでだ。』

それが奇跡の原理だったのかもしれない。

『世界という最上位の概念がほんの僅かにバランスを失い生まれた歪みにベクトルのような方向性と内容を持たせたものが奇跡なのだ。』

だが、それだけの事。
その発見は何ら彼に恩恵も感動でさえも、もたらすことはない。何故ならクリストフは奇跡を信じてはいないから。
奇跡の原理でさえも、ごく普通の情報として彼の頭の中で処理され、書き込まれるだけ。
「知ってるか?奇跡って神様が起こすもんだと思われてるが、実際はそんなもんいらねぇ。どんな方法であれ、奇跡を理解できれば誰にだって神様の助けなしで起こせるもんなんだとさ。奇跡を起こすには多分それ相応のツケがいるんだろうけどな」
「……自分で起こせるなら、それは奇跡ではないでしょう?」
「そりゃそうなんだけどなぁ………それは置いといて、だ」
「……で?」
「で、オレは思うわけだ。実際のところ、お前は奇跡を惹きつけるんじゃなくて奇跡を起こせる奴なんだな、と。きっとお前は、『記憶』と『絶望』という視点から、普通の人間よりも奇跡を理解してんだよ」
どこか見透かしたかのような、あるいは完全に読みを外しているのか、よく分からないコルネリウスの言葉を聞きながら、クリストフは再び思考の海に浸る。というよりは、本の内容を思い出していく。
『奇跡の発現から僅かな間をおいて世界は自己修復を行う。基本的にバランスを失った存在は消失する。だが世界自体は消失しない。それは世界というものが最も優先されるべきである最上位の概念であるから。バランスを失った下位の概念を取り込んで世界の修復に当てる。そうやって世界は在り様を一定に保つ。しかし常に一定のものではなく、僅かな変化を続けている。』
考えもしなかった世界の理。
記憶の中では『もし、世界が修復されないならば次第に蓄積した内部矛盾によって混沌化し、崩壊につながるだろう』という記述が続いていた。
(———まるでディレクターズ=エリアみたいだな)
ベアトリーチェに聞いたディレクターズ=エリアの元となった並行世界の一つを彼自身の想像力でアバウトに思い描いてみる。

この世界よりも発達している科学技術。
世界統一政府。
時代遅れのような気もする帝国主義。
凶暴なまでの歓喜に染まる人々。

それらを彼女の話を基にシミュレートさせてみた。
因果律や世界を歪める並行世界移動技術(略称 TPTS:Technology of Pallarel world Transportation System)を有し、それを何度も行使していた世界は恐らく修復される速度がTPTS使用頻度に間に合わずに、次第に歪みという内部矛盾を大きくしていったのだろう。
矛盾を抱えきれなくなって結局崩壊。
世界が支えていたはずの人類の存在もそれによって消滅した。

では、何故『神』であるイヴリン=フェレスは世界の崩壊に耐え得ることができた?
奇跡としか言いようのないものが彼に起こったのかもしれない。
だが、世界が崩壊する程の内部矛盾が起こした強大な力に耐えうる程の奇跡だ。いくら奇跡が起こったとは言え、恐らく彼も無事では済まなかっただろう。
『自然法則を超越する故に万能だが、それ相応の代償を必要とする奇跡。仮定でしかないが、それを理解できた者が奇跡の行使者になれるのだ。しかし、神はその奇跡の代償を必要としない。何故なら神は世界そのものであるからだ。』
その一節を思い返して、「ひょっとして…」と考える。
考えたくもない事だが、『神』がこの世界そのものだと仮定する。(仮定1とする)
一般的に神は奇跡を起こせるのだと考えられてきたというのは、その仮定が信じられているということか?
そう言ってもよさそうなものだが、実際には分からない。
また、『神』が起こす奇跡は『神』自体には影響を及ぼさないと再び仮定してみる。(仮定2とする)
仮定1が正しいとすると、世界そのものである『神』に向けられる代償は限りなく零に近いからだ。
さあ、実際はどうなのか。
本当に分からない事だらけだ。
しかしこれは仮定の話だし、それが正しくても正しくなくても、別にどうでもいい事だ。

何故『神』に対抗する手段として、遺伝子操作を施されて彼は生まれたのか?
どこまで彼の人生は、運命は仕組まれているのか?

自分という存在の一部を知ってから常々考えていた疑問が頭を過ぎる。
だが。
(ああ、だからか…………)
目には目を。
歯には歯を。

牙には牙を。
—そして、奇跡には奇跡を。
クリストフには生まれながらに奇跡を行使する事を目的とされていた、それだけの事なのだと理解した。それがENFORCERという二つ名の意味。奇跡を執行する者。
(…だが、奴らの誤算は『俺が奇跡を信じていない』という事態を想定していなかった事だ)
不意にぱちりと何かが心にはまり込んだ感覚がする。ジクゾーパズルのピースが上手くはまったような、そんな感覚。それによって意外にすんなりと理解できた事を理解する。と同時に『ざまあみろ』という気持ちが広がる。
こみあげる哄笑を無意識のうちに抑えた反動か、口角が緩やかに上にあがった。ダークブルーの瞳が幽かな闇の炎を宿した。
(———はははははっ!こんな処で奴らを出し抜いてやったんだ…愉快じゃないか)
どこまでも自身の人生が仕組まれているのかと思っていたが、案外そうでも無くて。
それに気付けたから、彼の存在を盾に神に対抗しようとした研究者たちと彼の存在を利用しようとした軍上層部の犯した誤算を嘲笑う事ができる。
そしてクリストフは別の事を考える。
(奴らの考えている奇跡が何なのかは知らないが、奇跡…か。なかなか面白いじゃないか。信じてみても面白いかもしれない)
ふっと笑みをこぼした。
「面白い—————奇跡を信じてやってもいいかもしれないな」
「深青の奇跡を起こしてみな、———きっと何かが変わるぜ」
「深青?」
「お前のイメージカラーかな。瞳の色そのままの、海のような深さをもった青。穏やかだが揺るがない、それでいて人を惹きつける、そんな色だと思う」

「………まあ、もうだいぶ変わってるけどな…奇跡ではない力で」
「?」
「…………いや、何でもない」
クリストフは笑みを深めた。
奇跡で、何かが変わる。
その存在を完全には信じ切れていないけれど、そんなものがこの世界の中にあっても良い気がした。
「…運命」
「……?」
「運命ってのは案外変えられるものなのかもな」
奇跡という言葉は一応信じてはみるが、運命という言葉は嫌いだ。
そうひとりごちて窓から再び外を見れば、曇天にわずかな光が差し込んでいた。

その直後、航空機は雲を突き抜けた。
窓の外に開けた、晴れ晴れとした青い空と下に沈む雲が織りなした光景がとても美しかった。

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