Phase:thirty-eight
コルネリウスはようやく意識を取り戻した。静かな車内できょろきょろと周囲の状況を確認する。
ああ、思い出した。
車に乗って研究所に行こうとしていたところまでは覚えている。それから尾行されていたことに気付いて…混乱して気が遠くなって…多分意識を失っていた。
視線を右に動かして、動けなくなった。視線の先では同乗者が運転手に銃を突き付けている。
銃を持った同乗者は唇を微かに噛んで、目を伏せていた。
どういう状況だろうか?
というよりは、何が起こったのか、同乗者に聞くべきかと判断して口を開きかけた。しかし、彼よりも先に漏れてきた声があった。
「——何故なんだ」
それは静まった車内で呟かれた。苛立ちのような激しい感情の色と切なげな色とが混じった自問。彼にはそんな風に聞こえた。途端にずしんと重くなる空気を感じる。
「しょうがない、まったく馬鹿な奴だな…お前」
やがて、クリストフはぽつりと言葉を零し、諦めたような表情を浮かべた。
その仕草が誰に向けられたものか、コルネリウスには分からない。
一応口元は笑みの形をかたどっていたが、それは決して笑みと呼べるものではなく、何とも言えない表情だった。
何かを堪えているような。耐えているような。全て、「ような」が付くものでしかない曖昧な表情。どう表現するにしても言葉が足りない。それから彼は憂鬱気に髪をかきあげて、前を向きなおした。
もはやその顔に、さっき浮かべていた表情は欠片ほどもない。切り替えが早い。
そんな風に感心する間もなく、ルームミラーに映らない彼が再び笑みを浮かべていた。狂気に陥る寸前の昏い笑みを。
「———もういいだろう」
「な、何が?」
「とぼけるな。車内の音声を録音していただろう?十分録音させてやったんだから、録音関連機器と録音媒体を全て出せ。なお、これは上官命令だ。…俺の階級を知らない筈がないな?権力に関して言えば、貴様の上官よりは上だが」
薄い笑みを浮かべながら、彼は低く鋭い声で運転手に命じた。単に「出せ」と言っているだけなのだが、威圧的な態度で命令しているように聞こえた。まるで運転手が軍人であるかのような口振り。彼はれっきとした自分のエージェントだというのに。
コルネリウスはそう声を上げたかったが、彼の体はその意思に反して、声が漏れそうになるのを必死で堪えている。口を挟んではいけないような気がした。クリストフは運転中の運転手が片手で恐る恐る差し出した諸々の物を受け取って、運転席側に上半身を乗り出す。
「それと、研究所まで最短距離で行け」
それだけ言うと、彼は窓を開けて受け取ったばかりの物をぽいと投げ捨てる。
運転手の「——了解」という短い返答が返ってきた。ただ、その声には細かい震えが含まれていた。
その後、クリストフは銃をもう1丁取り出して右手だけで持ち、窓から少し身を乗り出して何発か発砲した。消音装置が付いていた所為か、大きな音はしない。
「処分完了」
淡々とした口調で告げ、乗り出していた上半身を元に戻して無表情で発砲したばかりの右手の銃と運転手に突きつけていた左手の銃をしまう。無駄の欠片もない、その一連の動作に背筋が凍りそうになる。そして車が急加速を始めた直後、クリストフは何かが抜け落ちたかのようにシートに力なく体を預けた。
ぱたりと左手がシートの上に投げ出される。
酷く疲れたような、虚ろな表情がかすかに浮かび上がる。
瞳が光を無くしていた。濁った青い視線が虚空をあてもなく彷徨っている。
どうするべきかと暫し考えて、彼にそっと手を伸ばした。
自身の恐れが現れたように、震えた手がそっと肩に触れる。
触れた途端に震える肩。反射的に払われる手。
刹那に奔る鋭い痛み。それにびくりと身を竦ませる。
鈍く光る銃とともに向けられる虚ろな瞳。
どちらの奥も闇しか見えない。
「—————」
「……?」
何を言われたか、分からなかった。小さく唇が動いていたのが分かっただけ。
状況の中で分かったのは、何かの代わりに自分が殺されそうだということ。
でも、何故だか恐怖は湧かなかった。
やっと願いを叶えられるからか。ようやく罪を贖えるからか。
だが、そんな事はどうでも良くて、せめて恐怖を感じているように装う為にそのまま目を閉じていた。
□□
絡め取られる。引き摺られる。手を、足を、首を絞め殺さんばかりに締め付けられる。
闇の鎖。導かれて急降下。そして闇の空間の底に叩きつけられる。
身動きが取れない。その為に受け身を取れず、体全体に大きな痛みが奔った。
『—————ぐッ!!』
痛みに慣れたはずの体でも、奔った痛みに声が漏れた。
随分と高い所から叩きつけられたのに、何も音がしない所が奇妙であり、恐怖でもあった。
それでもなお締めあげられながら、気付いた。ガブリエルが掘り起こしたルイの持つ闇は、気付かないうちに増幅されていたのだと。これだけの闇があれば、きっと狂ってしまえる。
ガブリエルがこちらを見る。彼の体には未だに闇が鎖になって絡み付いている。
彼は気付いていないかもしれないが、瞳から光が消えつつある。青い瞳が濁っていく。
何故、俺の為に自分を見失えると答えられるのか。
今は融合したとはいえ、もともとは他人だったじゃないか。
『クリストフ、来たのか』
『………ああ。あんただけに負わせるわけにはいけない。これは俺のものだからな』
底面に這いつくばった無様な恰好を彼に晒しながらも、何とか答えた。
ここでは記憶のフラッシュバックはない代わりに、理性が闇と化した記憶に繰り返し蝕まれる。
それを認めながら瞼を下ろすと、鎖が僅かに緩む。
同時に何かが伝わってくる。ガブリエルの思いが、緩んだ鎖を介して入り込む。
苦しさを伴うそれに温かみすら感じて、ぐいと瞼を上げて、絡んだ鎖から腕を引き抜く。強く圧迫されていた所為か、腕は鈍い痛みを訴えた。だがそれを無視して、底面に手をつき、拘束されていなかった足で辛うじて立ち上がる。
『だから、これを介してあんたの考えている事も分かる。これを何とかしたいと思っているんだろう?』
『…ああ』
『方法はある』
彼に向かって歩き始める。
体に纏わりついて、体が引き摺っている鎖が鬱陶しい。もどかしい。
離れたくてそれを掴んだら、ふわりと鎖が解けて、クリストフに吸い込まれる。
どういう形であれ、拘束するものはなくなった。歩いていける。
ガブリエルが目を見開いた。
クリストフは何歩か歩いた後、足を止めた。ちょうどガブリエルの正面。
そっと手を伸ばして鎖だけに触れる。幻影を残して消える闇。
それを自分に取り込む。ルイの記憶を受け入れるのだ。そして他の感情でカプセルのように包み込む。
全ての者への憎しみは和らいだものの、完全には消えていない。
悲しみも絶望も薄れはしたものの、消え去ることはなかった。
でも、それでもいいのかもしれない。
大切なものがあるのだと知ってしまったのだから。
大切な人たちから受け取った、たくさんのもので包み込もう。包み込まれた闇は自分の中に溜めこんでいこう。
記憶を他の何かに昇華させよう。
そして、また自分にどっと押し寄せてくる闇に理性が蝕まれていく。
鈍い痛みを訴える、この感覚は理性で制御されていた感覚を研ぎ澄ませてくれる。
次第に闇は薄れ、青みがかる。闇の奥は蒼いのだと知った。
泣きたくなる。だが、その衝動もすぐに消える。その代わり、今まで抱えていた何かが消えるような気がした。
『——っ』
『え?』
何かに呼ばれたような気がして、とある方向を振り向いた。それはガブリエルも同じ。
足を運ばなければいけない。何故かそんな衝動に駆られて、駆け出す。
しかし、走り出した途端に迷った。何処から声は聞こえてきた?
『こっちだ』
ガブリエルがある方向を指し示す。彼には何処から声が聞こえたのか分かったのだろう。
彼に従うべきだと判断して、自らも鈍い痛みを訴える感覚を研ぎ澄ませる。
暗闇に何かが浮かび上がる。息が漏れた。