Phase:thirty-nine
実験体No.09
それがかつて、自分の名前だった事があった。
しかし実際には実験体は9体もいなかった。
だから、それが自分の愛称から来ていることも何となく分かってはいた。
自分のやたらと長ったらしい名前はChristoph Neuen Leonhard Kreutzer。
愛称はStoffelだったりNeunだったりした。
neunはドイツ語で9を意味する。しかし両親が深い意味を持たせて、こんな名前を付けたとは思えなかった。おぼろげに覚えている範囲では。
実験体No.09というのは、研究者たちの趣味の悪いジョークか当てつけだったんだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。より重要なのは、何故過去の自分が…いや、ルイが眠ったままでいるのかという事だ。
それもあの時の姿のままで。
本当はあの時俺は救われてはいなかったのか?
頭の中にそんな考えがよぎる。
そんな馬鹿な。
瞬時に打ち消そうとするが、それは頭の片隅にこびりついて完全には消えてくれない。
確実に「そうではない」と言い切れない。
薄らいだ闇の中、感覚を研ぎ澄ませ、気配と位置を探る。
背後にガブリエルの気配。
過去の俺が救われていないのならば、何故俺は生きていられる?
『——それはお前が本来の人格を捨てて、別の人格を作り上げたからだよ…心を守るために』
ガブリエルの声に足を止める。
彼は今何を言った?別の人格を作り上げた?俺の心を守る?
クリストフが振り返ると、ガブリエルは虚ろではない眼を和らげて笑った。
『捨てられた人格はどこにも居場所がなくて、この空間にある。ディクソンが義理の両親になって酷い事をした時もお前は人格を捨てた…ま、捨てたっていうよりは永久の眠りにつかせたって表現のほうが正しいか』
『俺は、何度も人格が変わった存在だというのか?』
『そうだな…だが、人間誰でも人格は変わるさ。生きている限りは、な……お前の場合は人格の変わり方が激しいってだけだ』
『あんたは知っていたのか』
『まあ、な。お前との共同生活も結構長いからな。ほら、行ってやろうじゃないか』
『…………ああ』
再び歩き出す。しばらく無言で歩を進めていたがガブリエルが不意に前に出てくる。
とある地点でしゃがみ込み底面に手をついて、すぐに立ち上がる。
何かを確認したかのように頷いて口を開いた。確信に満ちた口調だ。
『今日オレが目を覚ました時、ここにいた』
『ああ…近くにいる』
歩きながらクリストフは目を閉じる。
脳裏に鮮やかな色彩と単調な色彩、その両方と共に今までの記憶が蘇る。並行世界から来たという彼らに教えてもらった記憶もある。嬉しかった事、悲しかった事も怒りも憎悪も、殺意すらあった。だが、そのどれも自分を構成するものだ。いくら過去を後悔してもそれは否定できない事実。事実は否定できないが、負の感情だけはもうたくさんだ。あまりにも自分の理性はそれに蝕まれ過ぎていた。蝕まれた理性はもう取り戻せないだろう。いくら自分が統合人格だとは言え。
それでも、これ以上自分が蝕まれないために、この薄れつつある闇を浄化、あるいは昇華することはまだ可能なはずだ。
確認したように頷いて、目を開ける。薄いブルーが視界に入った。
ああ、見つけた。何故か安堵に満たされ、足早に近づく。
少年の側に跪いて確認すると、少年は眠っているようだった。
恐怖が浮かんでいない少年の表情に、安堵で満たされたまま笑みを浮かべだ。
ふと疑問がよぎる。ルイ本人は確か、ベアトリーチェのもとにいるはずだ。
では、この少年は?
『シュトッフェル、いたか?』
『ここにいる』
ガブリエルも足早にやってくる。
少年を見た彼の表情もやがて安堵に変わった。
現在の自分の髪色とは違う、自分が生まれ持っていた純粋な漆黒の髪を撫でながら、クリストフは呟いた。
彼は自分の過去に隠された過去なのではないだろうかと思う。
表面上に恐怖は浮かんでいなかったが、何か他の感情を感じるのだ。
『もう、随分とここで眠り続けているんだろうな』
『そうだろうな』
細く小さな体を慎重に抱き上げ、顔を覗き込む。
よくよく見れば閉じられた瞼から零れだした涙の跡が薄く透けて見える。
怯え、悲しみ、悲鳴が同時に頭に叩き付けられる。恐怖ではないにせよ、負の感情には違いない。
——もしかして。
『よっぽど耐えられなかったんだよな。気付けなかった…いや、気付いていない振りをしていたのかもしれない』
『……』
『置き去りにして、ごめん………俺は、気付かないうちに”俺”を置き去りにしていたんだな』
そっと目を伏せる。
彼の記憶の一部はすでにこの人格の記憶として持っている。
しかし、この少年は未だに一つに統合できない記憶を内包していることを教えてくれていた。
そして少年の温かい体ごと、幼い故に純粋な感情を抱きしめた。
きつく、きつく。それでも壊れないように。
自己満足でしかないかもしれないが、抱きしめる事でその全てを包み込めたら良いと願った。
自分が知っていた過去では、父親が救出してくれた。
しかし、ここにいるルイは…否、過去の自分は救われる前にここに捨てられたのだ。
父親がいなくなった今、過去に隠された過去を救えるのは自分しかいないのだろう。
クリストフが考えている事が分かっているかのようにガブリエルが頷いた。
救えるのはお前だけだと視線で語っている。
『もう大丈夫。怯えなくていいから』
耳元で囁く。
声に応えて目を開けてほしかった。せめて反応だけでも返してくれれば。
反応は返ってこない。それでもしつこく囁き続ける。
今までの自分を考えれば、ありえないような事だとそっと苦笑する。
長い時間が過ぎたような気がする。
『———』
腕の中の過去が微かに動いた。
ほっとため息をつきそうになるが、あともう少し。
自分の名前を呼ぶのは何だか妙な気もするが、今度は名前を呼んでみよう。
『クリストフ、シュトッフェル………助けに来たよ』
『———』
もぞり、と今度は大きく動いた。瞼もかすかに動くようになった。
もう一度抱きしめた。そっと背に回される腕。
…ん、腕?
———という事は。
『——パ、パ?』
目覚めたのか、肩の辺りで微かに嗄れた声が聞こえた。
ようやく見えることのできた、澄んだ青い瞳が自分を見つめていた。
5歳の時点で自己を閉ざした為に、これからの事を何も知らずほとんど汚れていない純粋な瞳だ。
クリストフは少年の問いかけに静かに頷いてやる。
この時ばかりは父親と似た顔で良かったと思う。同時に、純粋な人に嘘をつくのはかなり心苦しいが、この場合はしょうがないと自分に嘘をつく言い訳をした。
『もう大丈夫。恐がらなくていいからな』
『………っく』
安堵したのか、過去は肩に顔を目一杯埋めて泣き始めた。スーツの上着が涙と鼻水でくしゃくしゃになっているだろうが、別に構いやしない。クリストフは自分にしがみついた過去を引き剥がしたりせずに、しゃくりあげては震えるその背を繰り返して優しく擦る。
柔らかく温かい体温に泣きたくなる。
ほろりと涙が零れ出したのが分かったが、流れるままに任せておく。
ガブリエルが少年に手を伸ばして頭を撫ぜた。
『シュトッフェル、痛かっただろう。辛かっただろう。お前は助けてって叫んでた。その時オレはお前の中にいた…それなのに気付いてやれなくて、悪かった』
『よく頑張ったな。もう我慢もしなくていいんだ。思いっきり泣きなさい』
耐えてきた思いを全てぶつけて、それを全て受け止められる事が少年にとってのカタルシスなのだと思う。堪え切れなくなって、先程よりも激しく泣き始めた少年が、しがみついたクリストフの背中に深く爪を立てた。信じられない位に強い力だ。
背中に痛みが奔るが、それでも少年の背中に回した腕は放さない。
何事にも終焉はやってくる。
それをこの時程強く実感した事はなかったかもしれない。それまでに鮮烈な瞬間だった。
腕の中の少年の姿が透け始める。背中に立てられていた爪がクリストフに与えてきた感覚が失せる。彼は泣くのを止め、クリストフから距離をとった。
『…ありがと、パパ…ううん、みらいの2人のぼく。シュトッフェルとガブリエル、だよね』
透けていく中、少年の形をとった過去はあどけなく微笑んだ。
クリストフが父親でない事はとっくに解っていたように話す。
『ぼくがいることをしってくれて、ありがと。2人のおかげで、ぼくはやっとらくになれる』
『俺の方こそ、こんな闇の中に閉じ込めて…済まなかった』
『シュトッフェルがあやまることじゃないよ』
『闇を作り出したのは俺なのに、どうして』
過去は何かを迷うようにそっと目を伏せて、それでもはっきりと答えた。
『これはたしかにシュトッフェルがつくったものだけど、シュトッフェルをいじめたひとたちがぼくたちのこころにそうさせたものだから、シュトッフェルのせいじゃない』
『……………だが』
過去はクリストフの胸にそっと小さな手を当てて、そして言いたい事が分かるかのように、首を振った。
胸に当てた掌から彼の心が流れ込む。
もう、かれにぼくのそんざいはひつようない。
かれはじゅうぶんつよくなったんだから。
だいじょうぶ。
きっとぼくみたいにはならない。
『いいたいこと、わかるよ。でもね、それはちがうよ。ぼくは、このきもちをだれかにつたえたかった。…だけどね、じかんがすぎていくにつれて、きえそうになってたの。それからまもってくれたのは、シュトッフェルのつくったやみだったんだよ』
『…………そうか』
『まもってくれて、ありがと。ガブリエルにもおれいをいわなきゃ』
『礼?』
『いつもそばにいてくれて、ありがと』
『…どういたしまして、かな』
最期に浮かんだのは、一番透明で晴れやかな笑顔。
少年の表情の変化はそれほど見ていないけれど、これが一番いい笑顔だという事だけは分かった。
輪郭が薄れていく。薄れた部分は薄い青の細かい灰に変化を遂げてダークブルーの闇に溶け込んでいく。
『さいごにやくそくして。』
『何を?』
『ぼくはまけたから、ここにいた。だけど、ふたりはぜったい、なににもまけないで。ぼくみたいになっちゃだめだからね』
『……………ああ』
『ぜったいだよ?…ぼくのさいごのおもいを、うけとってくれてありがと。これで、ほんとうにさようなら、だね』
『ああ、さようならだ』
『…そうだな…さようなら』
その笑顔を鮮明に2人の脳裏に焼き付けて、過去は消えた。
消えたというよりは昇華されたのだろう。
ルイが一人で抱えていた過去をようやく救う事ができたのかもしれない。せめて、そうであって欲しいと2人は願った。
救えたかもしれないというその証拠に、クリストフの記憶の中には新たな記憶—それは苦痛でしかなかったが—が生まれていた。