No Title Chapter of Ingram: 01

——何かが、呼んでいる。誰のことを?どうして?
遠くからそんな音が聞こえる。
もう一度何かが呼ぶ、今度は鮮明に。

 

ぼくは…こちらへ向かってくる光に呑まれて、意識が…ええい、まだるっこしい言い方は無しだ。有体に言ってしまえば、僕は死んだ。あの光は敵艦の主砲だったんだし、多分そんな感じだろう。確信ではないけど、自分の生命がどうなったかなんていう推測はできる。

…そうだよ、僕は死んでいるはずなんだ。死んでいたらこんな音なんて聞こえるはずがない。僕は極楽浄土も地獄も信じちゃいないし、そんなのは尚更ありえない。

今までの音で反応がないのを知ってか、恐らく耳元で、異常な音がした。

 

——おーい、起きてくれよ。確かに、君はこの世界で死んだんだよ。

 

やっぱり、異常だ。何もかも。
強引に目と思しき部分に光が注ぎ込まれる。ああ、頭が痛い。無意識のうちに目を閉ざそうと手を動かした……って動くんだ。もう意味がわからないことばかりだよ。

今度は上半身を起こした。先ほどの強烈な光にさらされた眼がうまく働いてくれない。

 

——ようやく起きたね。おはよう、久遠。

 

なんなんだ。確かに僕の名前は久遠だけど、こんなに故郷の言葉のイントネーションに近い呼び方をするのは両親親戚、後は幼馴染くらいしか心当たりがない。
誰なんだ?ただ、この声には聞き覚えがあるのは確かだ。

 

——僕は、今君が思い浮かべた人物ではないよ。まあまあ、目を開けてみたら?

 

その声に従うことを癪に思うが、従わなければ現状がつかめない。
ゆっくりと慣らすかのように目を巡らせ、声の主を探してみる。
やがて、影が目に留まり、その影が彩られて人の形になった。見覚えのある人——あの友人——、だけどその表情には見覚えはなく。
あの友人と同じ色合いの瞳と唇が緩やかに弧を描き、影に敵意が無いことを示した。

 

「僕にとっては初めましてだけど、西園寺久遠君…君にとっては久しぶりじゃないかなあ」

 

その彩色された影が口を開いた。
声まであの友人と同じ。
でも、そんな特徴を兼ね備えるこの影が、あの友人本人だとしたならば納得は行く。

 

「———クリストフ?!」

 

その友人の名前を呼ぶ。思いもかけぬ事態に、ひっくり返る声。
そうだ、彼本人ならば納得は行く。だがしかしこんな場所にいるはずはない。
彼は生きているはずだからだ。彼がいかに”万学の天才”などと渾名されていても、物理法則すら超越したこんなことはできっこない。
ありえないにもほどがある。僕が今こうして意識を持っているのも、彼そっくりの人物が目の前にいることも。

 

「僕の名前は確かにクリストフだ。クリストフ=クロイツァー。でもね、君の知っているクリストフではないはずだよ?」

 

にこやかに、その影はあの友人と同じ名をかたった。
クリストフを名乗る人物は、自分の知るクリストフではないとも言い切った。

 

「まあ混乱するよね。ところで、君は量子力学の観測問題における解釈の一つ、”エヴェレットの多世界解釈”を知っているかい?これを知らないなら”シュレーディンガーの猫”は?」
「”エヴェレットの多世界解釈”?”シュレーディンガーの猫”?…ですか」
「そう」
「どちらも知らないけれど、それが何の意味を持つというんですか?」
「それはそれで君にとっては何の意味もなさないけれど、今僕がここにいる理由の一つという意味にはなるんだよね」
「その解釈が?」
「そう、提唱したヒュー=エヴェレット3世の論文によれば、量子もつれにより相関した多数のbranchを相対状態として波動関数に記述しており、それらのbranch同士はお互いに干渉できないまま常に並存している。 観測者のうちのひとつのbranchの主観では、それと相関したbranchのみが観測可能な世界であって、相関していない他のbranchは観測できない。これに世界の分岐の概念を付加したもの…というのが”エヴェレットの多世界解釈”の大雑把な概要」
聞き慣れない言葉。友人と同じ存在から語られる、”エヴェレットの多世界解釈”。

 

聞いてみたところでよくは分からないが、僕は一つだけ似たような言葉を知っていた。

 

「——パラレルワールド?」
「大体そういう理解でいいと思う」
「それで、なぜあなたは此処にいるんですか?」
「君たちのいる世界と別の世界へ分岐した直後の世界の住人だ。君が知っている方のクリストフもだけど。理解しやすくためにはなんか書くものがあるといいよね…ま、これでいいや」
「まず、一本の線がありました」

 

指を中空で滑らせる。白く輝く一本の線が浮かび上がった。

 

「いろいろなポイントでこの線は分岐していくんだ。例えばイエス=キリストがユダの裏切りによって死ななかったら…とかでも死んだ場合と死ななかった場合で二つに分かれていくよね」
一本の線の右端側が二つに分岐した。
「こんな感じで、何かの出来事があるとずっと分岐していくわけだ。ずっと限りないくらいに。大きな分岐と小さな分岐いろいろあるけれどね。で、もっとも最近の大きな分岐のきっかけっていうのが僕」
「———はい?」

 

友人と同一人物らしいその人はそこまで言うと、左手の親指でとんと自分の胸を指した。
表情には『やってらんないよね』というどちらかと言えば諦めに近い感情が現れていた。

 

「クリストフ=クロイツァーという存在は、過去に…と言っても僕らが大学に通っていた10歳になったころだったかなあ…物理学を専攻していた。小さいがゆえにその物理学を突拍子もないところへ関連付けてしまったんだ」
「突拍子もないところ?」

 

なんというか、あいつは小さいころから天才だったようだ。
彼自身はそこのあたりをまったくと言っていいほどおくびにも出さなかったので、初めて聞く情報なのだが。
天才というか、鬼才というか。

 

「そう、それが超能力ってやつに関連付けられてしまったんだ。その原理はこのスペースでは証明及び説明が非常に困難なので省略するとして、そこからはわかるでしょう?」

 

彼は自分の事であるはずなのに、まるで他人事のような……呆れたような言いぐさであった。
僕には、その辺りが少し引っかかった。

 

「……もしかして、その超能力のシステムが存在するか、しないかってこと?」
「うん、概ねあっているかな。そのシステムが構築されて運用される世界と、構築されず従来通りの生活を送る世界に分かれたんだ」
「僕たちの世界は———従来通りの生活を送る方?」
「その通り。で、もう一方の世界は超能力のある生活が普通になってしまって、科学技術がこちらの比にならないほどに進化した」
「なにか、それが問題でも?」
「ああ、大問題があったんだよ…。大きく言えば二つほど。まず、人心掌握に非常に長けた能力を持つものが自分の世界の政府全てを叩き潰して一つの政府に纏めて独裁政府を作った。もう一つはその独裁政府の命令によって、時間を操作する能力を持つ者が、空間を操作する能力を持つ者と電流・電圧を操作する者と協力して他の世界へと干渉する能力を作って他の世界に干渉し始めた事」
「どっちもいやだ。話を聞いているだけですごく苛つく」
「それは僕もだよ。それで、後者の方はまだ続きがあってね…他の世界に干渉できるようになったのはよかったけれど、その際に発生する矛盾を解消できなかった。解消できるような能力を持った者が携わらなかったんだ。最終的に、矛盾を世界が抱えきれなくなって内部から全部消滅。独裁政府も巻き添え食った。一人二人、ちょっと生き残っちゃって、消えちゃった自分たちの世界じゃなくて、同じ世界線上のこっちの世界にタイムスリップ。とある目的を持って、やりたい放題はじめちゃったってわけ」

 

訂正。
天才ではなく、天災。鬼才は認めざるを得ないのでそのまま。
まあ、彼なら『そんなこと、知ったこっちゃない。僕のせいというよりは、使う人間のせいだろう』とでも言ってそうな気がするが。