Phase:eight
『オレの声が聞こえるか?』
「——っ!」
突如、クリストフを襲った頭痛と耳鳴り。それに混じるかのように、聞こえる声。
あの時間が訪れてしまったのか、と思ったがどうやら違うようだ。
いつもならば、馬鹿馬鹿しい、壊れたレコードのように同じ事を繰り返すコロラトゥーラソプラノのような女の声だが、今回ばかりは違った。
テノールのような男の声だ。
それもあまりに鮮明に響く。
彼の突然の異変をコルネリウスも察知したようだった。
「…どうした?」
「いえ…何でも、ありませ…———ッ!」
全てを言い終わる前に全身を走った急激な痛みに耐えかねて、床に膝をついた。
左手に持っていた箱が床に落ちて、中身が散乱していく。
銀色のものが、独特の音を微かに立てて、白い床の上を滑っていく。
まるで走る痛みを抑え込もうしているかのように、クリストフは両腕で自らの体を抱いた。
心臓の鼓動が、煩い。
「おいっ!大丈夫か!?」
「——大丈夫ですか!?」
コルネリウスと医師が駆け寄ってくるのが、スローモーションで見えた。
音が、心臓の音の所為で、聞こえない。
『オレの声が聞こえてるよな?』
「…っ、誰だ、あんたは……!」
『オレはガブリエル=ブライトクロイツ…久しぶりになったが、「初めまして」とでも言っておこうか?』
「…どこ、にいやが、るッ!」
『お前の体の中だ』
視界が90度回転した。
というのも、コルネリウスがクリストフの体を半ば強引に床に横たえさせたからである。
コルネリウスと医師がしきりに何かを叫んでいるようだが、見えない防音壁があるかのように聴覚は完璧にシャットアウトされている。
体が意識を失ったのか、視界も真っ暗になり、さっきまで煩かった心臓の音も、静かになった。それなのに、『体の中にいる』と答えたガブリエル=ブライトクロイツという人物の声だけは鮮明だ。
そして、何故だかその人物の姿形、表情が目の前に現れた。
脳が見せている幻影なのか、自分がレム睡眠に近い状況にいるのかは分からなかったが。
短い銀髪とクリストフと同じ色合いの青い瞳。
クリストフによく似た顔立ちの、外見20代後半位の男。
そんな男が僅かに口角を上にあげただけの笑みを浮かべていた。
クリストフは彼と向かい合って対話している状況にあった。
クリストフは彼を睨みつけ、唸るように叫んだ。
「出て行け…!」
『無理な相談だな…18年もこの中にいたのでは出て行こうにも出て行けないさ』
「何故、俺の…中に?」
『…まさかとは思うが、18年前の出来事を覚えていないのか?』
「しらない…その頃の、記憶が、無いんだ」
『やはりか…それもそうだな…仕方が無い、オレが思い出させてやるとしよう…18年前の記憶を!』
ガブリエルの声がしたその直後、何かが頭の中に滝の様に流れ込んできた。
けれど声は聞こえない。
母親に押し込められた真っ暗なクローゼットの中に小さな黒髪の子供が蹲っていて。
突如差し込んだ光の中から、誰か知らないけれど2人現れて。
そのうちの1人が子供の鳩尾に拳を叩き込んで気絶させて運んで行った。
「あ…」
記憶という名の奔流がクリストフを呑み込んでいく。
脳細胞一つ一つが何かを呼び覚ます反応を始めている。
白衣を着た人たちが気絶から覚めたけれど眠っている子供を、手術でもする時に使うような台へ押さえつけて、その子の腕に何かの薬液のようなものが入った注射器の針を刺して。
「…ッ」
何かに救いを求めるかのように、子供は大人たちに力なく手を伸ばす。
その先に見ようとしていたものは果たして何だったのか、それは分からない。
子供の仕草に何も躊躇いもせずに、大人たちは注射器の中身を注入した。
子供の体が急にびくりと跳ね上がって、急に眼を見開いた。
瞳は青い。海を思わせるような深い青だった。
目の前に居る筈のガブリエルという男の持つ色。
白衣を着た大人たちは喜んでいるようだった。口の動きからすると「成功した」という旨を言っているようだった。
子供が不意に口を開いた。何かを喋っているようだ。
「………っ、あぁぁぁっ!!」
頭が割れそうに痛い。音は相変わらず聞こえない。
それでも、何を言っているのかは子供の口の動きで分かった。
ただ、周囲の大人たちを憎悪の籠った大きな瞳で睨みつけて、「死ね」と。
その二文字を、子供にしては似つかわしくない、まるで大人のように言い放った。
しかし、その子供は覚えていないとはいえ、かつての自分だった。
『あの子供がお前であり……オレたちだ』
そう。そうだった。
記憶の奔流が止まった。
混乱しているにもかかわらず、脳全体が「あれは事実だ」と訴えかけた。
あまりにもひどい出来事をできるだけ深く眠った状態で経験することで、精神的なダメージを軽減させようと体が働いていたのかもしれないが、脳は外界の様子を克明に記憶していた。
突如入り込んできた彼の存在のせいで。
『オレたちは、その時にお前の中に入り込んだんだ……』
そして、新たな気配。
ガブリエルの背後にたくさんの人が現れたのだ。
眠っている、黒髪で自分そっくりな人。
同じく、黒髪の小さな子供。
同じく、ジュニアハイの学生くらいであろう黒髪の少年。
彼らを優しく見守っている20代くらいの茶髪の女。そういえば誰かに似ている。
そして、ガブリエルと同じ、いや少し高いくらいの背格好の金髪の男。
「何故…俺の中に、こんなに人がいるんだ!?何なんだ、お前ら!!」
『お前はひょっとしたら知ってるかもな。お前…ってか、この眠ってる奴…オレらはオリジナルって呼んでるんだけどな、こいつが苦しい事から逃げ出した結果生まれたのさ。医学的に病名で言えば、解離性同一性障害ってとこかな』
「何なんだ、お前らは…答えろ!」
ガブリエルはクリストフにそっくりな男をつま先で軽く蹴った。
それに女性が反応して、軽く窘める。蹴られた男はぴくりとも動かない。
“クリストフ”が叫んでいるのをきれいに無視して。
『ガブリエル、駄目よ』
『悪かったよ、ベアトリーチェ』
『…いいわ、今回だけ無かった事にしてあげる。でも、もうしては駄目よ?』
『ああ、わかってる。…で、こいつがオレの双子の弟。…エアハルト』
この女性にはどうやら敵わないらしく彼は軽く謝って、金髪の男を”クリストフ”の前に押しやった。ガブリエルが表情を少しずつ変えているのに対し、目の前の彼はあまりというより全く表情を変えていない。
「!…あんたたちも双子なのか」
『…そうだが。それが悪いか、ウィリアム?』
「いや、驚いただけだ…って、それ、俺の名前…?」
『ああ、便宜上勝手に名前を付けさせてもらったんだが。フルネームは”ウィリアム=アビントン”。』
「”ウィリアム=アビントン”…それが、俺ってわけ…?」
頭がハンマーか何かで殴られて、何かの棒でかき回される。
認めきれない、こんな事。
感情が渦を巻いて暴走しそうだ。
認めない、俺は”クリストフ=N=L=クロイツァー”なんだ!
否定など許さない、俺がそれ以外であってたまるものか!!
声が出る限りに絶叫。
すると自分以外の他者の存在が消え失せたかのように視界が歪む。
体の底から何かがせりあがってくる。それでも声が聞こえてくる。それがまやかしだとでも告げるかのように。
『そうだ。自分がクリストフ=N=L=クロイツァーではないと分かって、驚いたか?』
「認めない……!俺は認めねぇッ!!!」
『……だろうな。そう来ると思った』
「お前ら俺から出て行けよ!!!」
『残念だが、不可能だ』
「俺を、俺が俺である事を、否定するな!!」
『やれやれ、よっぽど受け入れたくないと見える。まあ、当然か…アイデンティティを根底から揺さぶるような事だからな』
「消えろ消えろ消えろ消えろッ………夢なら覚めて……」
『———これは現実だ、”ウィリアム”。諦めろ』
「いやだいやだいやだ…俺は”ウィリアム”なんかじゃない…!」
もう、駄目だ。力が抜けたかのように崩れ落ちる。
どうしてこんなことになったんだ?
どうして俺は『俺』じゃないんだ?
…じゃあ、俺は誰?
迫られるように何かを考えては、消えていく。さながら奈落の底へ吸い込まれていくようだ。
そこに、ガブリエルと名乗った男の声が聞こえてくる。
『認めろよ、”ウィリアム”。認めて楽になっちまおうぜ。痛い事とか苦しい事は誰かと一緒に背負ってもらえるんだって考えてみな。それに、たとえ孤独になってもオレたちはいるんだ』
「…………」
何か、魅力的な事を聞いた気がする。もう痛みを感じなくていい?苦しまなくてもいい?
独りにならなくてもいい?何と甘美に聞こえてくる言葉なのか。
その魅力に抗えずに、ガブリエルに尋ねる。
「もう、一人で曖昧な過去に痛みを感じなくていいの?一人で曖昧な過去に苦しまなくてもいいの?」
『…そうだよ』
「いいんだね?」
『そうだよ、だから認めな』
歪んでいた視界が元に戻る。
自分だけが頭を抱えて蹲り、そこにガブリエルが手を差し伸べる。
彼の手を掴んでなんとか立ち上がった。
気が付けば、涙を浮かべていた。それを服の袖で慌てて拭う。
金髪の男はやれやれとため息をついた。
『…静まったか。まるで、キューブラー=ロスの人が死にゆくプロセスを見ているようだった。ああそうだ、一応俺も名乗っておこう。さっきガブリエルの奴が言っていたから分かるだろうが、エアハルト=ブライトクロイツだ』
『で、彼女はベアトリーチェ=クルティスで、オリジナルは当然ながら”クリストフ”。ちっさい子供がルイ。おっきい方がイヴァン、らしいな』
「ガブリエル、エアハルト、ベアトリーチェ、ルイ、イヴァン…?」
『そう』
『で、お前に提案したいことがあったんだった』
辺りを見回しながらウィリアムは名前を呟く。
エアハルトが話を持ち出す。
ああそうだった、それが本当の目的だったんだっけとガブリエルは笑う。
なんだろう、とても対照的な兄弟だ。
良く笑う兄と無愛想な弟。
ウィリアムがそう思っていると、無愛想な弟…エアハルトが口を開いた。
『さっき、ガブリエルが言ったが、多分俺達は解離性同一性障害に当てはまるのだと思う。いわゆる多重人格だな』
「……その知識なら少しだけある」
『なら話が早い』
『で、エアハルトとオレとベアトリーチェで相談してみたんだけどさ、そろそろ統合しない?』
『精神状態も安定してきているし、何時まで経ってもこのままじゃ、”こいつ”というか本体にとっても良くないからな』
「そう、なのかもね。…うん、決めた。苦しみたくないとか言ってたのに矛盾するけど、統合する」
即答する。先程の彼らの言葉はあまりにも魅力的だったから、たとえそれが嘘でも信じたかった。…恐らく嘘ではないと思っているが。
双子たちとベアトリーチェは驚いたように目を丸くした。
もっとも、エアハルトは少しだけだったようだが。
それを訝しんで、ウィリアムは問いかける。
「どうしたの?」
『随分あっさりと決めたが———怖くないのか?』
「何が?」
『統合なんかしちまったら、今のお前はいなくなるも同然なんだけど?』
『傷ついたり、苦しんだりすることもあるかもしれないわ』
「まぁ、それらが全く怖くないって事は無いけど」
『なら、どうしてかしら?』
ベアトリーチェの問いにウィリアムはちょっと考えて、笑う。
ああ、そういう事ね。さっきまでうだうだ言っていたくせに、提案に対する決断が早かったことに驚いているんだ。
別に驚く事は無いと思うんだ、だって…
「——それは、みんな同じなんだろ?」
『そうだったな』
『そうね、みんな同じだもの』
『ふっ、そういう事か』
彼ら4人の会話で一瞬にして場が和む。
しかし次の瞬間また緊張が走る。
神妙な口調で、ベアトリーチェが話しだす。
『じゃあ、さっさと統合しましょうか。早く意識が戻らないと、叔父様が慌てるんじゃなくって?』
「そうだね」
『本当に統合できるかどうかは分からないけど、やってみないと』
『まあ、失敗しても変なものはできないよ………多分な』
『できればガブリエルの言う”失敗”にはならないで欲しいが、こういうときのこいつの予感は大概当たるから大丈夫だろう』
『…それって、誉めてるんだよな?誉めてるんだよな?』
『一応、誉めている…つもりだ』
眠っている彼らを中心として円陣を描き、皆が示し合わせたように腕を前方へ伸ばす。
感覚があったかどうかは分からない。
それでも、腕を相手へと伸ばし、そっと手を重ね合わせた。
すると、あらゆる事が重みを伴って頭の中へ虹の奔流如く流れ込んできた。
さっきガブリエルに見せられた過去とは比べ物にならないくらいの情報量。
彼らが見てきたもの全てなのだと咄嗟に理解した。
いろんな人の表情、感情、言葉も垣間見た。
嬉しい事も楽しい事も痛い事も苦しい事も悲しい事も全てが混ざりあっていた。
そして、彼らの世界が崩壊する瞬間も。
色々な情報に身を引き裂かれそうになる。
ウィリアムが痛む頭を何とかして、その自らの手を重ね合わせている相手を見れば、各々が眼を伏せていた。
きっと彼らもウィリアムと同じ状況なのだろう。
ふと気になった。
(—————彼らは、一体どれだけの事を垣間見てきたのだろう。)
「—————あんたたちは、どれくらいを生きてきたんだ?」
『私たちは、この世界ではない…いわゆる並行世界からやってきたの。私たちの世界はこの世界の科学技術より進歩していてね、他の並行世界に移動するための技術を開発していたの。でも、ある日それが反動を起こして、結果世界が崩壊してしまった』
「…自然の摂理なんか思い切り踏み潰してる感じだね。こんな世界じゃ自然もへったくれもないけどさ」
『まぁ、そう言ってやるなって…その技術を開発したあいつも不幸な奴だったかもな。戦争用ってことで政府に命じられて並行世界移動技術を開発した。そして、結果世界を滅ぼすことになってしまったんだ』
「———どこだって、同じ事をやっているんだな…戦争のために………なんて…」
『そうだな、戦争に勝つ為には、どんなに非人道的な事でも人間はやるものさ…手段を選ばなくなった人間は、怖いな』
次第に輪郭が朧気になっていく中、ガブリエルたちは心底から穏やかな笑みを浮かべて言葉を紡ぎだしていった。
多分、今だからこそできる、今までの感情の吐露。
次第に各々の体が透けていく。
「うわっ、輪郭が…………!」
『オレから見れば、お前の輪郭も消えかけている。安心しな、みんな同じさ』
「そうなの?…よかった…」
『独立した人格である俺達がこうしているのも、普通の解離性同一性障害ではありえないのだろう。だが、恐らくこれは統合人格の形成なのかもしれないな』
『そうかもね……さて、新しく生まれる彼に名前をつけない?』
『そうだね。ベアトリーチェ、言いだしっぺからよろしく』
『そうねえ……クリストフ=ノイエン=レオンハルト=クロイツァー、かしら。統合人格になるかもしれない彼に相応しいのは、この名前じゃないかしら。』
「…いいと思う。オリジナルはオリジナルって呼べばいいし。うん、俺は賛成」
『いいんじゃない?』
『問題ない』
何かの臨界点を超えた感覚がした。やがて、意識が遠くなる。
完全に意識が途切れる瞬間、背筋をしっかり伸ばして立ち、微笑んでいる『彼』の姿が見えた。
その姿は、眩しく、優しかった。