「————!!」
レナスは頭を抱えた。やはりまだ彼との繋がりは残っているようで、この頭痛は彼が壮絶なことをやろうとしていることを伝えていた。
「あの人は何を——?」
□□
メールが届いた。
差出人不明、件名なし。
「誰からでしょう…」
メールを開封する。
その本文は。
Dear. Lenneth Beatrix Irving
Hello, Lenneth…another “Beatrice”.
I’m a part of Christoph Neuen Leonhard Kreutzer, your boss and your…
I send this mail to tell you one advice.
An advice is that you’re “Lenneth”, not “Beatrice”,so you don’t have to act as if you were “Beatrice Crutis”.
Just do what you want to.
With forever love,
Beatrice Crutis, another you
「ベアトリーチェ…」
既に肩の荷が軽くなりつつあったが今だに残るイヴリンに対する罪悪感が取り除かれる。
ああ、こんなにも彼女は…波立つ心を鎮めてくれる。
同じ外観をしているだろうに、複製体たる私とは真逆だ。
彼女はこうして心を静めてくれたのに、私はいつも何かを乱すのだから。
でも、もう良いのだ。
いつからか感じていた、この胸に刺さる罪悪感も。
生まれ出た瞬間から抱いていた義務感も。
彼女がこのメールをくれたということは、彼女が宿る彼がこの文面を打ったのだろう。
突如、彼女の安堵を乱すようにコンピューターが警報音を発する。
見れば、マザーコンピューターが誰かの生命反応が不自然に消失したという事を知らせていた。
「———」
先程の頭痛と共に酷く嫌な予感がする。
もう一通メールが着信していることに気がつく。受信時間はベアトリーチェからのメールを受信してから1分後。
ただの任務を知らせるメールであることを祈りながら、開封する。
From :Christoph Neuen Leonhard Kreutzer
Title: (no title)
Subject:Auf Wiedersehen, L
「何故?」
Auf Wiedersehen.
この部隊に所属する以上はこんな文章、すぐに理解できる。
この文章の意味は「さようなら、L」。
…しかし、分からない。
何故「さようなら」なのか?
何故途中で切れている?
何が起こっている?
メールに返信してみる。待てど暮らせど返事は返ってこない。
今度は電話をかけてみる。彼の声の代わりに、電波が届かないという機械音声が代わりに聞こえてくる。仕方なく、通話を切った。
ならば、先程転送した部下に通信をつなげる。
僅かな間の後に、「はい」という声が聞こえる。
念のため、ロシア語で話す事にする。
「ウィンストン少尉ですね?——今は大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です。補佐官、どうかなさいましたか?」
「先程から、閣下に連絡を取りたいのですが繋がらないのです。何か心当たりはありませんか」
「————いえ」
「そうですか、ありがとうございます」
ウィンストン少尉の付近にはいないらしい。
わざわざ通信で確認をとるよりも、GPSとマザーで確認すればいいのに…何を動揺しているのだ、私は。そんなに私は彼の事で動揺するようになってしまったのか。
警報音をいまだに立てているコンピューターを操作し、GPSの位置確認モードに切り替える。よほどの事でなければ携帯電話のGPSで事足りるはずだと踏んでいた。
「———地球上にはない?」
地球上には携帯電話は無い——几帳面な彼の事だ、即ちそれは彼が地球上にいない事を示す。ならば、マザーで確認する。
プロテクトを破って、暫く目的の部分を探す。
しかし、どれだけ目を皿にして探してみても、彼の所在地を示す筈の座標はこの世界中のどこにもない。地球にも。月にも。テッサリア条約機構加盟国にも。テトラリス星系にも。この世界のどこにもない。彼の座標は空欄だ。
「こうしてどこにもいない事が分かった結果、彼の居場所が分かった——残るは”ディレクターズ=エリア”だけですから。そして、確かに彼は存在するはずだけれど、この世界のどこにも存在しない——”シュレーディンガーの猫”というわけですか…。」
箱はこの世界。
猫は彼。
観測者は私かあの人か。
現時点では箱を開けられない。
よって、猫の生死は混在した状況だ。
観測者が箱を開けてみるまでは猫の生死は変化しない。
ただ、観測者になるでろう彼女には箱を開けるような権限は与えられていなかった。
それも自称神の策略だったのか。はたまた偶然か。
どうしようもなくて、彼女はうなだれた。
せめて、イーヴンには持っていくつもりでいたのに、その前に彼を—正確には彼の中にいるベアトリーチェたちを—連れ去られた。
正しく完敗だった。
人はかくも無力なものなのだっただろうか。人は神にも立ち向かえる力を持てるかもしれないという密かな期待は空しく崩れ去った。
□□
暫くしたのち、一本の通信が入る。
不明瞭なフランス語音声が聴こえてきた。
そこはフランス語圏だというのに、何をしている。
私の声が尖りそうになって口を飛び出す前に、それは比較的明瞭なロシア語音声となる。
「申し訳ございません、補佐官…途中まで閣下といたのですが、閣下を見失いました…」
それは、今にも泣き出しそうな声をしたフォンテーヌ少尉だった。
なるほど、彼が傍にいたのか。
□□
翌日、軍…主に上層部に動揺が走った。私の予想通りではあったが。
クリストフ=N=L=クロイツァーの失踪という事実は軍人たちの噂話を介して民間人の、マスメディアの知るところとなる。名前は伏せられたが。諜報関連部門はマスメディアの口封じを図ろうとしたが、情報はもはや止められないほどに広まっていた。上層部は彼の行方を追うように命令を出し、脱走兵として指名手配までも行った。
地球連邦軍上層部の極秘機密”After Apocalypse”はとある将校ら—J.D氏とD.L氏とでもしておこうか—の内部告発によって明るみに出る。この情報はマスメディアや各々の情報網を介して地球外にも広く広まり、クリストフの存在意義を知る各軍は地球連邦軍に対し、契約反故を理由に非難声明を出した。また自らの生命だけを重んじた計画に民間人及び各国政府からの非難は最高潮に達し、その非難に対し軍は臨時軍法会議を開廷、レフ=ダニロヴィチ=ボーディン地球連邦軍元帥及びその賛同者に軍法第3089条第1項違反として有罪判決を下す。レフ=ダニロヴィチ=ボーディン元帥は首謀者として、半ば非難をかわす形で絞首刑に処され、賛同者たちは無期懲役の刑に処されることとなった。
そして、前元帥とは思想の違いから距離を置いていたポール=チャールズ=ランドルフ=リーン=アシュトン上級大将が新たな元帥として就くこととなる。彼は軍法を改正し監視機関を新たに設置するなど、元帥絶対主義の旧体制よりも緩やかな新体制を敷くこととなった。クリストフの後任として、補佐官の私が大佐に昇進し、繰り上げでアキシオンフォース隊長に就任することとなった。数日後に旧体制下でのクリストフ=N=L=クロイツァーの指名手配は取り消されたが、未だに捜索対象となっているらしい。
そして、軍事企業最大手クロイツァー=インダストリーズは突如株式をすべて売却し、業界第二位のスマイソン=アーミー=インダストリー社、第三位ヴァイスリッツ社をはじめとした企業がこの株式を購入。クロイツァー=インダストリーズは社名を変更し、事実上消滅した。クリストフの叔父であるコルネリウス=C=A=クロイツァー・元クロイツァー=インダストリーズ社社長は過労のため、長期療養として病院に入院したと報じられた。
人の噂も75日。
そのことわざは今も通用しているようだ。最初こそは連日のように軍関連のニュースが飛び交っていたが、次第に人々の話題にも上らなくなる。遂に将校の失踪どころかその存在までも忘れ去られることとなったのだった。
…平穏はひとまず訪れた。
ただ、消えてほしくないと願った彼がいないけれど。