No Title Chapter of Lenneth: 11

慌てる様に席を立ち、私は急いでいた。
もう消えることなどないと分かっていながら、この逸る足を止められない。
分かってはいるのだが、逸る心も止まらない。

隣室のドア。
心臓の鼓動がうるさい。
何度か深呼吸をして、ドアを開ける。
この部屋は一応、特殊任務部隊隊長の私室という事になっているが、私は一度も使っていない。
勿論、部屋もあの時のままだ。
私の中では隊長というのはあの人しかいないからだ。

其の部屋に足を踏み入れる。
ものが少ないうえに元々几帳面な性格だったせいか、綺麗に整理整頓されている。

ベッドは部屋の奥にあった筈だ。
大体どこの部屋でも間取りは似ている。

其のベッドへ足を進める。
予想通り、そこにあの人はいた。
失踪当時のままの、薄緑のシャツに深緑の無地のネクタイ、ストライプ柄のスーツという格好。
彼は死んだように眠っている。

取り敢えず、ジャケットが皺になってはいけない。
そう思って脱がせようと体を持ち上げる。
何とかジャケットのみを脱がせ、机の椅子に掛ける。その時、何か硬い感触を感じた。
何だろうと思い、ジャケットの内ポケットの中に手を入れる。
指先が硬いものに触れ、それを引っ張り出す。

「拳銃2丁にIDカード、ですか」

拳銃をサイドテーブルに置き、IDカードをまじまじと見る。
氏名、所属を示す欄の隣で、今見る顔よりも幼い彼がこちらを見ていた。
撮影時期はアカデミーを卒業して入隊した18歳くらいの頃だろうか。
髪の色も違う。今はプラチナブロンドなのに対し、この写真は濃灰色だ。
脱色剤による脱色?いや、それなら今までに髪の色が急に薄くなったりしだいに濃くなったりなど不自然な点を感じただろうが、そんなことはなかったように思う。
人工的なものでないなら、プラチナブロンドではなくトゥーヘアードと呼ぶべきだろうか。
それ以外の遺伝的な要因?それならば一卵性双生児である彼の姉にも同じ変化が起きている可能性を否定できないが、一昨日流れてきた写真ではそのような変化は見られなかった。美しい黒髪だった。
もし、彼らに組み込まれた遺伝子、それが二人とも同じ位置ではなく、それぞれ違う位置に組み込まれたとしたら?
彼はメラニン産生に関与する酵素などの遺伝子座に、彼女はそれ以外だとしたら?
でも、そうだとしたら昔からスプライシング異常によって色素が産生できなかったはず。
それでも結果論的に言えばその推論は矛盾しない。
あのグレーに似たプルシアンブルーの瞳は色素の欠如が著しい場合が多いと聞く。
明るいブルーが多くを占める中、あの色の瞳はドイツや北欧系では多くないと思っていたが。

…が、マザーが消えてしまった今、私に確認するすべなどない。
ひょっとしたら、イヴリンが何かの拍子でいじってしまったのかも。
遺伝子関連の知識を継ぎ合せてみても、どうもおかしいから、その可能性が一番高いだろう。
ふうとため息をついて、IDカードをひっくり返してみる。

Sex: M
Date of Birth: 2785.12.25
Blood type: AB Rh(-)
Nationality: Germany
Religion: Christianity

“Bis zu meine Schwester, ein Tag, um wieder zu sehen.”

「……ドイツ語、ですね」

走り書きなのだろうが、それでも綺麗な字が並んでいる。
その文章の言語と、それが意味するところを悟り呟いた。
イヴリンによれば、私の国籍はUKという事になっているらしい。
ついでに言えば、ベアトリーチェの所為かイタリア語もオプションで話せる事になっている。
おまけにこの部隊の特徴上、フランス語、スペイン語、ギリシャ語、ロシア語、中国語等多岐にわたってネイティブスピーカー並みに話せるようになっている。
彼も普段は流暢な英語を話しているが、彼の国籍はBRDで、要はドイツ語のネイティブスピーカーだ。
言うまでもなく彼もマルチリンガルだ。

「…”Bis zu meine Schwester, ein Tag, um wieder zu sehen.”…だから”My sister, until the day we are able to meet again.”だな」
「!」

突如、聞こえてきた懐かしい声に、反応しきれない。
横たわったまま彼はこちらを見ていた。
まだ意識が完全には覚醒していないのか、焦点はあらぬところをさまよっているようだ。
暫く待っていると、焦点が定まってきた。それを見計らって、声をかける。

「―――目を覚まされましたか」
「…そう、だな」
「おはようございます、閣下」
「1年ぶりだな、アーヴィング隊長」

かつての空気そのままに彼は笑んだ。
実に穏やかだ。
ただ、彼の言葉に引っ掛かりを覚える。
…1年ぶり?…隊長?
彼が知りえる筈のない事を何故知っている?

「…え?今何と…」
「……ああ、そうか」

引っかかりを覚えた私。
それに納得したように彼は頷いた。
いかにも「そりゃそうか」とでも言いたげな顔だ。

「どういうことです?」
「自分が1年近く”この世界にいなかった”事は了解している、と言ったんだ。最後、あいつに教えてもらったからな」
「あいつ…とは?」
「君の父親だ」

父親?私の?
何故そういう言葉が出てくるのでしょう、あり得ないというのに。
私はベアトリーチェのデータをコピーすることによって生まれた。
故に、私には父親という者はない。
無論、母親も。

「父親…ですか?私にはそんな人はいませんが…」
「…具体的に言った方がいいか?」
「まさか、貴方が指しているのは…」
「そうだ。君の父親というのはイヴリン=フェレスだろう。違ったか?」
「――私はあの人を父親だとは思っていません」

声に怒りが混じってしまった気がした。
父親というカテゴリーにさえ当てはまらないからだ。
あの人は私の創造主にして、許されざる”敵”だった。
彼はその言葉を聞いてもなお、笑んでいた。

「…そうか。あいつは君の事を言い遺して消えたんだが…いっそ伝えない方がましか?」
「……?」
「君がハッキングによってマザーを消去した事について、彼は”よくもやってくれたね、レナスちゃん”と言っていた」
「そう、ですか」

あの人の言いそうなことだ。
でも、消えたとはどういう事?
…いないという事なの?
私とあの人のつながりは……もう感じられない。
敵対していた間でさえ微かにあったつながりが、ない。
どうして。

「それから、”ともあれ、ベアトリーチェと彼女が僕とマザープログラムのない世界を選んだんだ。僕にはそれに抗う術などないし、抗う気にもならないね。あくまでも僕に対して抗った君と僕は違うから…このまま静かに逝くとするよ。そう決めていたから。精神体になる前でもなった後でも無関係な人をたくさん巻き込んだから、行き先は多分地獄だろうけど。”だそうだ」
「………」
「”僕の最愛の人・ベアトリーチェとレナス。レナスの事を複製体、複製体と言っていたけど、今思えば彼女は僕の娘だったね…ベアトリーチェと彼女に伝えてくれ、どうか幸せになれと”…そう最後に言っていたぞ」
「……あの人は、どうしました?」
「それだけ言って、透けるように消えた。完全に消えるその時まで、笑っていた」
「……あの人、いつも言い逃げするんですよね。どうにかすればいいのに…あの時だってっ」

視界が歪む。何故。歪んだ彼が軽く目を見開いた。
ぼろぼろと水が目から零れていく。
彼の前でこんな顔など見せられなくて、俯いてその水を拭った。
背にそっと温かい何かが触れた。

「彼は自分で自分のした事に対するけじめをつけようとしたのではないだろうか、と思うんだ」
「なぜ、」
「彼は彼の望む世界を上書きしようとしてきたり、君を作った。彼は全てを元に戻さずに消えたが、仮に戻してしまっていたらそれは君をも殺すことになるからだろう。…それが彼なりの後悔と贖罪なのかもしれない」

そっとさするような動き。
若干手付きが荒い気もするが、彼のこれまでを思えば仕方ない気もする。
まるで父親が子供に言い聞かせるような声色で彼は話す。

「俺がディクソン中将を義理の父親だと思わないのと同じように、君が嫌だと思うなら彼を父親だと思わなくてもいい。ただ、そうやって泣くのなら心は少なからず彼の事を悲しんでいるんだろう。……それでいいと思う」

傍で歌声がする。
だが、此処にいるのは私以外には一人しかいない。
最初は低く不明瞭だったが、それはやがて高く良く通る、芸術的に言うなら”透き通った”という言葉が良く似合う声に変わる。
これは歌?…この曲調は初めて聴く。知らない歌。
泣いたせいか、ぼやける視界とぼんやりして軽く痛む頭でそう思う。

Selig sind, die da Leid tragen,denn sie sollen getröstet werden.

Die mit Tränen säen,werden mit Freuden ernten.
Sie gehen hin und weinen und tragen edlen Samen,und kommen mit Freuden und bringen ihre Garben.

(幸いなるかな、悲しみを抱くものは、かれらは慰められんゆえに。)
(涙とともに蒔くものは、喜びとともに刈り入れん。かれら出で行き、泣きて、とうとき種を携える。されど喜びとともにきたりて、穂束を持ち運ぶ。)

まずはゆっくりで、抑揚の付いた調べ。まるでなだめるような。
ドイツ語だからか、内容は何となくわかる。
聖書の一節?
最初の一文はマタイによる福音書 5:4、次の二文は詩編 126:5-6だったはず。

Denn alles Fleisch, es ist wie Gras und alle Herrlichkeit des Menschen wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret und die Blume abgefallen.

So seid nun geduldig, liebe Brüder,bis auf die Zukunft des Herrn.Siehe, ein Ackermann wartet auf die köstliche Frucht der Erde und ist geduldig darüber,bis er empfahe den Morgenregen und Abendregen.So seid geduldig.

Denn alles Fleisch, es ist wie Gras und alle Herrlichkeit des Menschen wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret und die Blume abgefallen.

Aber des Herren Wort bleibet in Ewigkeit.

(肉はみな、草のごとく人の光栄はみな草の花のごとし。草は枯れ花は落つ。)
(かく今は耐え忍べ、愛しき兄弟よ、主の来たらんとするときまで。視よ、農夫は待つなり、地のとうとき実を。また耐え忍ぶなり、朝の雨と夕の雨を得るまで。かく耐え忍べ。)
(肉はみな、草のごとく人の光栄はみな草の花のごとし。草は枯れ花は落つ。)
(されど主の御言葉は保つなり、とこしえに。)

曲調が変わった?
二文程すぎると、最初の曲調に戻る。
聖書のテキストを引用したものだろうか。
それならヤコブの手紙 5:7→マタイによる福音書 5:4→ペトロの手紙一 1:24-25だろう。

Die Erlöseten des Herrn werden wiederkommen,und gen Zion kommen mit Jauchzen; Freude, ewige Freude,wird über ihrem Haupte sein;Freude und Wonne werden sie ergreifen, und Schmerz und Seufzen wird weg müssen.

(主に救われしもの再びきたりて、歓呼とともにシオンにきたる。喜び、とこしえの喜びが、その頭の上にあらん。喜びと歓びとをかれらはつかみ、苦しみと嘆きとは逃げ去るべし。)

この一節はイザヤ書 35:10か。
そうであれば良いのだけど、と願う。
何に対して?
…その答えは分かっている。それはイヴリンに向かっているという事位。
彼が消えたという事実に目を背けてはいけない。けれど、父親というのは…

Herr, lehre doch mich, daß ein Ende mit mir haben muß.und mein Leben ein Ziel hat,und ich davon muß.
Siehe, meine Tage sind einer Hand breit vor Dir,und mein Leben ist wie nichts vor Dir.

Ach wie gar nichts sind alle Menschen, die doch so sicher leben.Sie gehen daher wie ein Schemen und machen ihnen viel vergebliche Unruhe; sie sammeln und wissen nicht, wer es kriegen wird.Nun Herr, wes soll ich mich trösten?

Ich hoffe auf Dich.

Der Gerechten Seelen sind in Gottes Hand und keine Qual rühret sie an.

(主よ、知らしめたまえ、われに終わり必ずあること、わが命に末あること、我この世より必ず去ることを。視よ、わが日々は手の幅ほどのものなり、御前にては。わが命は無のごとし、御前にては。)
(げに、まことに無のごとし、すべての人は、かれら確かに生きれども。かれら影がごとく移ろい、むなしく思い悩む。かれら積み蓄えるが、知らず、誰がそれを手にせんかを。されば主よ、何によりてか、われ己を慰むべし?)
(われは待ち望む、汝を。)
(正しき人の魂は神の御手のうちにあり、いかなる責め苦もそれらに触れることなし。)

やっぱりイヴリンは父親とは呼べない。今まで抱いていた概念は換え難い。
だけど、いつかは変わるのかもしれない。…「イヴリン」から「お父さん」と。
まずは心の中で呼んでみようと思う。

――もし死後の世界というものがあって、天国と地獄という概念が存在するなら。
イヴリン…いえ、父がやがて煉獄で自らを清め、遂には天に昇る事を願おう。
根拠はかけらもないが、きっと大丈夫。あの父なのだから。
…彼の心の中のベアトリーチェ、そして私が最後まで導くと思うから。

やはり、この歌はレクイエムだったのかもしれない。こんなに気持ちを落ち着かせてくれた。
私の涙がひいて、目の充血が取れたかを確認して彼は私の背を押した。

「まだ仕事を切り上げていないだろう。行ってくるといい」
「……はい!」

ひらひらと彼は手を振って私を見送った。
閉じたドアの向こう、彼が呟いていたのを私は知らない。

「…君は隊長だ。その分、責任は重い。君は俺の優秀な副官だった。俺がやっていた仕事を良く見ていたから、大丈夫だと俺は信じている。そう、君が隊長だ。一方で俺はもう隊長でも何でもない、ただの脱走兵だ。裁きを受ける必要がある」