No Title Chapter of Lenneth: 12

仕事を仕上げ、隣室へ向かう。
あの人はどうしただろうか。これからどうするのだろうか。

ドアを開けると、あの人はいなかった。

「———っ」

ベッドはきれいに整えられ、髪の毛やほこりひとつない。
誰かが此処にいたという痕跡さえ残っていない。
……何処へ行ったのだろうか。

あの人のいなかった、今までの、悪夢のような日々を思い返し、背中がざわめく。
生死の分かった猫を、再び実験用の箱に詰め込まれたような、気分だった。
しばらくその場に立ち尽くし、あの人の帰りを待った。

□□

暫くすると、あの人は帰ってきた。

「あ、もう定時か。お疲れ様」
「閣下、どちらへ?」
「———もう”閣下”と呼ぶ必要はない。君が仕事に戻っている間に、元帥に会ってきたんだ」
「……そうですか」
「脱走は軍法違反、具体的に言えば軍法第1600条第1項違反だったよな。それに関する罰則は分かるな?」
「……ええ」

内心ぎくりとする。動揺を悟られていないといいのだけど。
勿論、答えを言われなくとも分かっている。
軍法違反自体でかなり重い罰を受けることになる。
敵などに情報漏洩などさせたら、更にその罰も加わって逃れようのない事になるのも分かっている。

「それがどういうつもりなのか、俺を生かす気らしい」
「今の元帥は元々、閣下のお祖父様のご友人でいらっしゃるそうですから。シュナイダー事務局長が脱走兵扱いをやめるよう要請したのだそうですよ」
「え、それはないだろう。あの人、娘の事もネームバリュー第一で嫁がせたくらいだしなぁ…」

口だけではなく仕草でも「ない、ない」とでもいうように彼は真っ直ぐに立てた手を横にひらひらさせた。
おまけにありえない、という文字がありありと顔に浮かんでいる。彼にとって余程信じがたい事なのだろう。
私も隊長就任後、事務局長に一度お会いして話をさせてもらった事がある。
その時の事務局長はいかにも好々爺という感じの方だったと認識している。
それに一挙一動、その横顔がなんとなく似ている気がして、『やっぱりあの人の祖父なのだ』と思ったのだった。
しかし、本当に彼が言うような、そんな人なのだろうか。
そうは思いながら、話を元の筋に戻す。

「それはともかく、脱走兵扱いはしない事になっている筈でしょう?」
「そうそう、それで今後の処遇が発表された」
「どう、でした?」
「極秘任務に行っていた事にするから無罪放免、だとさ。自分の事だけど処分が甘いな…」
「私としては良かったと思っていますよ?」

これは本心だ。
脱走の罰則、それは銃殺刑だからだ。
それが科せられないどころか、何の罰も科せられないという。
それならむしろ喜ばしいではないか。

「まあ、処遇については詳しい事を言うと長くなるから、先に結論から言おうか。今度、退役することになった」
「…退役ですか。いつですか?」
「明後日付けだな。えらく中途半端な時期だけど」
「また急ですね」

どうも何かを催すにはちょっと時間が足りないようだ。
メンバーをそろえて、会場を確保して、飲食物を確保して…どうやっても1日では足りない気がする。
しかたないか。

「どうせだったら当時の部隊構成員でちょっとしたパーティでも開こうかと思ったのですが」
「いいよいいよ、そんなものしてくれなくても。君たちには仕事が待っているだろうし」
「…残念です。アビゲイルもアリスもセレストもセシルも皆、イングラムさんでさえ閣下のお帰りを待っていたんですのに」

あれから暫くは私を含め、誰も立ち直れなかった。それだけ隊長である彼の存在が大きかったのだ。
隊員たちも、隊長執務室に訪れるたびに空席の隊長用の執務机を見て、明らかな落胆のため息をついた。補佐官執務室は隊長執務室と廊下を挟んでいるため、時折顔をのぞかせてみたが、彼らの落胆ぶりも酷かった。
それにもましてあの3人。セレストやアリス、セシルは自室に引きこもって、仕事をしようともしなかった。その分アビゲイルが「あたしなら、まだ大丈夫ですから。もっと辛い思いをしてるアリスたちの代わりに頑張ります」と言って仕事を頑張ってくれた。彼ら4人は、彼を存在の拠り所にしている節があったから。
まるで、頼れる親を失った子供のような、そんな様子だった。
その様子を見かねて、上層部はあまり仕事を回してこなかったが。
そんな様の部隊が任務を遂行しようとしても任務の邪魔になるだけだから、だと分かっている。
私の代わり——補佐官——にはイングラム少佐がたってくれていた。仕事の面でもそうだが、精神面でもかなりお世話になってしまったし、彼には感謝してもしきれない。

「そういや、セレストが一番ショックを受けていなかったか?」
「ええ、彼が珍しく一番落ち込んでいたようでした」

そうだ。あれだけ好意を振りまいていたアビゲイルが一番落ち込むかと思っていたのに、実際にそうなったのはセレストだった。
アビゲイルは寧ろ彼をはじめとした面々を励まそうと躍起になっていた。彼女も辛かっただろうに、それをおくびにも出さず明るい声で冗談を言ってみたり話をしたりして彼らを励ましてくれた。本来ならば、それは私の役目だっただろうに。
…しかし、彼女もそうでもしていないと気分が沈んでいたのではないだろうか、と私は思う。

この間、ちょっと言い忘れたことがあって、仕事を終えて自室に帰ろうとする彼女の背中を追いかけようとした事がある。
その背中は、疲れたというものではなく、あまりにも悲しげで、落ち込んでいて、悲哀に満ちていた。思わず、声をかけるのを躊躇ってしまったが、きっとあの時に声をかけていたら、先ほどまでの笑顔をぱっと繕ってこちらを振り向いただろう。

暫くはセレストが一番落ち込んでいたその理由が分からなかったが、通信記録を見ていると思いだした。
彼の失踪を涙声ながらに報告したのはその彼だったからだ。
振り向くと、そこにいた筈の親しい人がいない。…どこに行った形跡もないのに、いない。
「消えてしまった」というにふさわしい失踪。
それを悟った時彼が感じた一種の絶望感。それを私は完全には分からないだろう。
消えた人が存在の拠り所であるならば尚更。

「あいつ、実際見ていないとはいえ、俺が消えたその場にいたからな」
「……彼は見ていなかったのですね」
「それが幸いだった。さっきまで話していた人が消える瞬間なんて誰だって見たくないからな」
「全くです」

ただ、共感はできる、と思う。私も似たような境遇にさらされた事はあるから。
愛した人と自らの異父弟たちを求めるあまり、変貌した上に更なる変貌を遂げた生みの父。
存在に蓋をされてしまった猫。その箱の蓋を開けた瞬間に分かる、猫の生死。

「…、とは嫌なものだな」
「え?」
「不意に眠気のようなものがして、地に足をつけていたはずなのにその感覚も頼りない。まるで、浮いているかのように。声も出ず、音もなく、自分の体は透けて、信じていたはずの異父兄さんが恐ろしく目をぎらつかせて傲岸不遜に笑っている様で正面に立つ。まるで、死刑宣告を下されたかのような気分だった。次の瞬間視界も途絶え、意識さえも途切れてもう、死んだんだと思った。まさか、二回も死ぬなんてと自分で笑ってしまった」
「……」
「そうだな、俺も笑った。むろん彼女も。異父兄さんは、何故ああなったのだろう。ベアトリーチェ?」
「まるで、猫が箱に入れられて蓋をされる瞬間に放射性物質のα崩壊が起きて、それによって毒ガスが発生して即死したような。——彼らのような経験は真っ平だ」

ぽつりとこぼされた言葉。
それはこの世界から消える瞬間を指しているの?
異父兄さん?それは誰を…いえ、イヴリンのことを指している?
彼と誰かの記憶が混合している?
言葉を発することもできず、漠然とした感情だけが残る。
そして、なぜ彼はそれでも生きていられた?
その答えはベアトリーチェがいるから、というだけでは不十分だろう。

もっと、他の何かがあるはず。
思い出した、記憶の片隅に残っていた、マザーに残っていたエラーログの最上段にあった”データ削除に失敗しました”という文言。

「顔だけ出すか?」
「それをやったら、パーティどころじゃありませんよ?多分、寝かせてもらえませんから」
「…それは困る。何かの糸が切れたみたいに眠気がするのに」
「暫くぴったりひっついて、どこにも行けなくなりそうですしね」
「………それも困る」
「閣下」
「だから、もう”閣下”じゃなくていいんだって」

彼は人差し指を立てて私の前で止める。
この仕草はSTOPと言っているんだろうか。
それともNOと言っているんだろうか。

「…すみません、どうお呼びすればいいか分からなくて」
「そうか、いつも”閣下”って呼んでたからな。もう上司と部下でもないから、呼び捨てでいい」

取り敢えず、原因は”閣下”と呼んだ事だろうと推測して、謝罪する。
原因はその推測通りだったらしい。
そうか、と呟いて数秒間考える仕草をした後、「呼び捨てでいい」と彼は言う。

「……そうですか?では、遠慮なく。クリストフ」

いきなり呼び捨てというのもかなり緊張するものなんだと思った。
急に心拍数が上がったみたいだ。

「…はい?」
「…何故丁寧語なんですか?」
「いや、名前を呼ばれるのも久しぶりだなと思って。多分、その名前で呼んだのは教官以来かな」
「愛称ではなく、こちらの名前で教官に呼ばれていたから敬語なんですね」
「そういう事だと思う」

彼も暫くの間何もなかったように無反応になった後、丁寧語で反応を返した。
理由を聞いて納得。教官とのやり取りでこんな反射が出来ていたのならしょうがないかもしれない。
この場の空気を変えようと、一つ姿勢を正す。
これも反射の一つなのだろう、彼も姿勢を正す。

「頑張ってくださいね」
「どうもありがとう、そちらこそ頑張れよ。隊長」
「今までありがとうございました」
「——至らない上司だっただろうが、ついてきてくれて本当にありがとう。感謝している」

敬礼。

至らない、だなんてとんでもない。
むしろその能力や職務に対する態度は尊敬に値した。
着任した時から…モノクロームの世界の中だったこの一年間でさえ、私は彼のその姿勢を大いに参考にして、より自分に合ったスタイルにできないか模索していたのだ。ようやく今頃になって、その姿勢がなじむようになったくらいだ。
——優秀な上司の部下として働く事が出来て幸せだったと思う。

「無理しすぎず、元気で…またいつか会おう」
「ええ。貴方も…どうぞお元気で」

此処に一つの別れがあった。