Phase:thirty-seven
「……ん」
闇の底でガブリエルは目覚めた。
隣の少年を起こさないように注意しながら上半身を起こす。
彼は穏やかな寝息を立てて眠っていた。
(——何故、オレは目覚めた?)
そう思いつつも、彼の黒髪を撫でる。
柔らかな髪の毛の感触に目を細める。そして、ずっと触れていたいという名残惜しさを振り切って立ち上がる。
ガブリエルが目覚めるたびに彼の髪を撫でるという、こんな光景はいつから始まったか。
そして当てもなく、全てを飲み込みそうな暗闇が際限なく続いている空間を歩き続ける。
何にもぶつからない、光もない、平坦な地面に切なさを覚える。
ガブリエル自身の意識の中の風景と比較すると、あまりにも寂し過ぎた。
ガブリエルの持つ色づいた風景と、目の前に広がる闇で塗りつぶされた風景。統合人格が生まれてもなお、広がり続ける漆黒の闇。時間感覚さえ失ってしまいそうだ。ガブリエルには時間感覚というものは関係なかったが。
自身の銀髪が闇に浮かぶ。この闇はあらゆるものを飲み込んでしまいそうなのに、この色は決して闇に溶け込まなかった。
ああ、何故。頭の中に色々な疑問がよぎる。
ああ、そうだった。18,9年前からだ。
幼かったオリジナルにはあの痛みと、垣間見てしまった冷酷で利己的な大人の世界はあまりにも辛すぎた。だから、彼の弱い心が姿を見せ、迫る全ての痛みから逃れるために全てを閉ざしたのだ。そして、時空を超えて並行世界の一つから来た自分たちを受け入れる器となり、またルイを生み出した。それから彼はずっと眠り続けている。きっと眠りながら怯えて、同時に自分を傷つけている。自らの時を止めたままで。現在のクリストフが死ぬまで眠り続ける、死んでいるに等しい弱く、虚ろな存在(コア)。
しかし、現在の彼は気付いているのだろう。
彼の中にいる自分たちの記憶をすべて持つ彼ならば、現在の自分を構成するもの…理性が、生まれもった本来の自分の人格ではなく、何度も作り上げられたものだと。彼の持っている弱さが彼の危機に際し、核である心を守るためにそうしたのだと。
あの後、彼の心は時間をかけて別の人格を作り上げた。
人格を作り上げること自体何も悪いことではないとガブリエルは思う。人間が生きている限り、人格は何度も再構築されるからだ。だが、その人格も11年前にはディクソン家の人間によって破壊されて、闇の奥底に逃げ込んだ。その時が1番残酷に破壊されていたように思う。8年か9年ぶりにガブリエルが目を覚ました頃には、既に心身もろとも奈落の底に堕ちきっていて、遂には闇に引きずり込まれてしまった。その後も彼は新たな人格と理性を作り上げて何年かを過ごしたが、後に、自分たちと融合し、彼はここにいる。
今ある彼は「クリストフ=N=L=クロイツァー」であり、「ガブリエル=ブライトクロイツ」でも「エアハルト=ブライトクロイツ」でも「ベアトリーチェ=クルティス」でも「ウィリアム=アビントン」でも、「ルイ」でも「オリジナル」でもある1番不確定な存在だ。
しかしながら、1番強かで、強く攻撃的な存在でもある。その一部である自分が言ってしまうのも奇妙な話だが。
頭の回転が速く、圧倒的な強さで他者を凌駕する、ある意味魅力的な存在。
これも自分が言うのも奇妙だが、恐らくは融合前とは比べ物にならない。
□□
(彼が不安定な存在ならこの闇だって不安定なはずだけど、一体何だというのか?)
行けども行けども続いている、この揺らがない闇は一体何だというのか。
ガブリエルは歩き続けていた足を止めて、闇に手を伸ばす。
掴めない。当然だ。闇は実体を持たないものだから。それでも右手を伸ばし、まるでそこに壁があるかのように手を当てる。
今度は触れた、のかもしれない。ひた…とした、芯まで冷え切りそうな冷たい感触がする。
闇の一部分が鎖になって、意思があるかのように伸び、腕を伝ってガブリエルに絡み付いて、中に入り込んでくる。
ガブリエルの中に闇が取り込まれた瞬間、何かが弾けるような感覚がした。
・・・
(これはルイ、なのか…)
それはルイの記憶と感情の奔流。
それは痛みを伴って押し寄せる負の感情のスパイラル。
どうして。怖い。痛い。痛い。嫌だ。止めて。助けて。許して。誰か。
どうして誰も助けてくれないの?どうしてこんな目に遭わなくてはいけないの?
神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。神様。
もう我侭なんか言いません、だから助けてください。
神様なんかいない、神様への願いは聞き届けられない。
憎い。憎い。憎い。………何もかも………殺してやる。
昏く翳った青の瞳。それに宿った昏い炎。怒り。憎悪。殺意。
ガブリエルたちが完全には共有できなかった深い悲しみと痛みが今更突き刺さる。
統合する際にルイが無意識のうちに痛みの完全な共有を拒んでいたのだろう。
エアハルトが当時の記憶をすべて奪っていたのにも関わらず、その記憶だけはずっと引き継がれているらしい。
痛みは本能に、あるいは体に直接刻みこまれるらしい。しかも、時間を経ると増幅されていくようだ。
いくら苦痛の管理者とは言え、多分もうすぐ彼は痛みに耐えられなくなってしまう。正気を失ってしまう。
今のクリストフが攻撃的なのは、ルイによって蓄積された痛みの反動と不確定な存在故に確かなものを求めようと外界に働きかける力の最悪な相乗効果の所為だと分かる。現に今、外の世界で動いているクリストフはその性質をよく表している。
意識を集中させると、傲慢な笑みを浮かべた彼が透けて見える。
(この闇は、ルイの痛みの記憶、か。それが、外界とこの世界を隔てている絶対的な壁だ)
何も、こんな重たいものをたった1人で背負う必要はなかったのに。
分け合う事は出来ただろうに。
そっと呟いて、ちら、とルイがいる方を見やる。何故、彼が今もなおここで眠っている事が許されるのかが分かった。
負の感情が渦巻く闇の中、少しだけ闇が薄れている部分がある。
そこに空いていた左手を差し伸べる。
闇が左手の周囲から少しだけ退くと見えてきたのは、海のように深く鮮やかな青。それが本来、クリストフ=N=L=クロイツァーという個人が持っている筈の色。
この闇を晴らせたら…この青を見ることができたなら、どんなに幸せなのだろうか。
彼にとっても、自分自身にとっても。
ふと気が付けば闇に向かって語りかけていた。
「ルイ。もう…いいんだ」
もう1人の自分のような存在なのだから、気遣わなくてもいい。全てこの身体で受け止めてやるつもりだ。だけどこんな事になるなんて思いもしなかった、とガブリエルはそっと苦笑する。苦笑を笑顔に変えて目を閉じる。
そのタイミングを見計らったかのように両手に、両足に、腰に、胸に闇の鎖が絡みつく。
そうして捕らえた獲物の全てを取り込もうとする。
なんて苦しいのだろう。
ガブリエルは11年前に覚醒してから融合するまではずっと眠っていた。
その10年間に増幅された黒い感情は、槍のように鋭くガブリエルを締め付けては蝕んでいく。
「………くっ」
引き裂かれそうだ。絞め殺されそうだ。
全身をきつく締めあげられる。軋む音が聞こえ始めた。
締めあげる効果は精神体にも通用するらしい。ああ精神対精神だから通用しやすいのか。視界が霞み始める。彼は無意識のうちに首に絡みついた鎖を外そうと手を伸ばした。しかし、すぐに思い直して引っ込める。
全てこの体で受け止めると決めたのだ。だから、気が済むまでは。
こんなに深い負の感情は初めてだ。
手を伸ばしたい衝動を耐えるために、ガブリエルは咆哮した。
□□
不意に名前を呼ばれたような感覚にクリストフは目を見開いた。
こんな風な感覚がする時は大抵ガブリエルだ。
運転手に再び銃を突きつけてから、意識を潜らせてみた。
次第に鮮明になっていく、ヴィジョン。
いつだって周りは闇だった。
(彼は何をしている?)
ただ立ち尽くしたままで、クリストフの闇に絡みつかれている。元々自分の、いやルイが持っていたものだから、それが何でできているかも知っている。原料は、彼が抱えるトラウマ。その光景はガブリエルが闇に取り込まれているように見える。
彼の表情は苦しそうだ。だが、それでも確かに笑っていた。
(どうして、笑っていられるんだ。…やめてくれ、そんな事。あんただって苦しいんだろう?)
クリストフの表情も苦痛に歪む。
彼もまさに今、闇に締めあげられている。冷や汗を頬に伝わらせながらも、それをも感じ取り、ガブリエルはできる限りの笑顔を浮かべて言った。もうそろそろ限界に近いかもしれない、と彼は微かに苦笑する。
(お前はオレだ。それと同じで、オレはお前の一部なんだ。だから、お前の闇を引き受ける事位、やってやる…っ)
ガブリエルが言えたのはそれだけ。だがそれだけでも、クリストフには十分だった。
胸が苦しくなって目を伏せる。
苦しめたくなんかなかったのに。現に今、俺はいろんな人を苦しめてしまっている。
どうして、苦しめることしかできないのだろう。
そして言葉を選んでは躊躇いつつ、口にした。
(お前、その…俺の所為で自分を見失ってしまっていいのか?)
(ああ、構わない)
返ってきたのは短い肯定。
それに目を見開く。
信じられなかった。
「…………どうして」
分からないことばかりだ。