Phase:forty-two
どうしたものか。彼は考えていた。
さっき、一瞬の間にエアハルトに交代してしまった。
今、クリストフに交代すべきか。それともエアハルトのままでいくか。
此処は敵地だと考えた方がいい。ガブリエルやベアトリーチェ、そのほかの人格には任せられない。
隣にちら、と視線をやる。
名前はセレスト=ミシェル=フォンテーヌ。
国籍:フランス、生年月日: 2789.3.19、血液型: A型
こちらが見て分かるほど緊張しているが、警戒は怠っていない。
なかなかいい反応だ、とエアハルトは思う。
アカデミーとクリストフの教育の賜物だな、と感心する。
まあこのままでいいか、と思い、そのままで行く事にする。
「——?」
違和感?…いや、何かに呼ばれた気がした。
ふと横を見てみると、そこは第9実験室というプレートを掲げた部屋があった。
「どうかなさったんですか?」
「いや、何でもない」
まさか、とは思いながら、セレストに「何でもない」と言う。
そうだ、この実験室は———!
プレートがきっかけとなって、思い出した。
あの時実験を受けた、言ってみれば始まりの実験室ではないか。
そうだったな、とあれこれ思い出した。
□□
何かが投げ出される。
その後に響く、何かが地に落ちた音。
ただ、その一連の音をぼんやりと聞いた。
「また、失敗作か。——成功したのは奴だけか」
声には明らかな失望と……嫌悪感。
投げ出した者たちは自分たちが投げたものには目もくれず、去ってゆく…のだろう。
逃げ出すわけではないのに、頑丈な扉を閉める。それは轟くような音をたてて世界を隔てる。
その後のこちらの世界は漆黒の闇の世界で。光は一欠片もない状態で。
だらりと情けなくも伸ばされた手の先も見えない。この深淵の闇は、己が飲み込んだ者たちに絶望を植え付けようというのか、飲み込んだ者たちの自我を崩壊させようとしたのか。
『どうなるのか。…死ぬのか?まあ、別に死んだっていいかな』
そんな事はどうでもいいことだ。
どうせその目的は分からずじまいで終わるのだから。
…この、闇の世界に取り残されたものたちの死で。
大いに諦めの含まれた思考が頭を支配する。
闇に残されたものは虚ろな目で虚空を見つめる。
彼もまた然り。
その躯には「実験」と称される暴力によって付けられた無数の傷と痣。
決して消えぬ「薬物」という楔を打ち込まれてふらつく頭。
ここで死ぬものが例外なくここに残していくものの一部だ。
この闇には数多の記憶が残っているように感じる。
何もないのに。
かつて、いくつもの瞳がこの闇をとらえ、深淵なる闇に消えた。
その中で、彼唯一人だけが命を繋いでいる。
呼吸をしている。
楔の所為で痛めつけられた躯が鈍い痛みを訴える。
この痛みは、彼らを死に追いやってくれるわけではなく、肉体的にも精神的にも彼らを苦しめるだけのものでしかないのだ。
なんと不親切な痛みだろうか。
その痛みで、何処か醒めた思考を持った彼は、痛みを必死で耐えているもう一人の幼い彼に気づいた。
何か声がする。
彼は、それに気だるげに、緩慢な所作で首を向ける。
彼がこうやって肉体を使うことは長い事無かったので、動作はかなりのぎこちなさを伴っていた。
近づく音。
慌ただしい足音、荒々しい音、怒号、悲鳴、一瞬の間の後の銃声。
その直後に響く、重い音。
やがて、閉じられたばかりの世界が再び開かれる。
闇に僅かばかりの光が差し込み、深淵だった闇が溶けてゆく。
その眩しさに、闇に慣れた目が眩暈を起こした。
「—————動くな!!」
急に差し込んだ光に、声に、『あぁ、まぶしい』と純粋にそう思った。
だが、それを実感する前に光の中から誰かが駆け寄り、ぐいっと乱暴な強い力で上体を起こされる。
別の誰かに向けられたヒステリックな敵意が伝わってくるのが分かった。
「——これ以上近づくなッ!近づいたら……クロイツァー少将、貴様の子供を殺すぞッ!!」
薬物投与を受けてクラクラしている彼の頭でも、上体を支えている誰かが言ったのは理解できた。
首にひんやりとしたものを押し当てられるのも。
それが狙っていたのは頸動脈という血管だったと理解したのはもう少し後だったが。
ほのかな光の中にいる者たちがはたと足を止める。
息を呑む音も聞こえた。
光を切り取っているのは二つの影。
一つは細身で、けれど上背があるもの。
もう一つは、中肉中背。
影から見た外見は違うけれど、そのどちらにも怒りと悲しみと安堵と心配の入り混じった雰囲気が見え隠れする。
きっと、どちらも人なのだろう。
——あの人たちに比べれば、あいつらは人じゃないみたいだった。
『実験』の最中に向けられるあいつらの視線にはどうしても耐えられなかった。
いろんな感情(好奇心と同情)の綯交ぜになったような、あるいは欲望をむき出しにしてしまったような…どちらともとれるような視線は、はっきり言って気持ち悪かった。
その視線を向けられたまま行われる『実験』と称される無慈悲な暴力。
人として扱われずに乱暴に投げられる体。
欲望をむき出しにした獣たちに弄られる体。
薬物で体の自由を奪われ、抵抗などできない。
ただ獣に『従順』を強制させられるのだ。
「止めなさい、そんな事をしても何にもならないぞ?」
「煩いッ!このメスで…クラウゼヴィッツ補佐官、貴様の首筋を掻っ切ってやろうか!?」
どこかしら張り詰めた緊張感を伴った声が聞こえた。
声から判断するに、二つの影のうちの一つがクラウゼヴィッツ補佐官と呼ばれた男性であった事が分かる。
クラウゼヴィッツの隣にいた人がいなくなっていた。
『…逃げた?』
そっと絶望が押し寄せる。
この状況では自分は動けない。この闇から救い出してくれるかもしれないと思っていたのに。
それこそ、どこぞの正義のヒーローみたいに。
間近で起こるヒステリックな嘲笑。声が上ずっている。
声の主は多分、上体を支えている誰かだろう。
「——で、誰が誰の首筋を掻っ切ってやるんだって?」
すぐ後ろで聞こえた低すぎない低音。比較的大きな衣擦れの音とちょっとくぐもった苦しそうな声。
床に落ちる、刃物。
床に跳ね返って響く甲高い金属音。
「…………ぐっ!い、いつの間に…?」
「お前が喚いている間に後ろに回らせてもらったんだ。感情に身を任せた人物の後ろに回るのは、実に容易いことだと思うぞ——っていうのも、周りが見えてないからな…アルノー、引きつけ御苦労様だった」
「いえ」
アルノーと呼ばれ、クラウゼヴィッツ補佐官と呼ばれた男が敬礼をした。
「ヴェルナー=クロイツァー…貴様……ッ!」
「——よいしょっと。ともかく、クリストフは救出成功」
突如起こる浮遊感。
体の下に感じる、程良い硬さをもった——腕。
それによって、低音の持ち主である父親(ヴェルナー)によって背負われていることを悟る。
クリストフ。
それがヴェルナーによって背負われている彼—1人の少年だ—の名前。
彼—クリストフ—にヴェルナーは首を後ろに向けて、ぎこちなくも柔らかく微笑みかける。
彼に、「もう安心だ」ということを伝えようとしたのだろうか。
『もう、苦しまなくていいのか?』
彼の言葉にならない問いに、ヴェルナーは先程の—ぎこちなさの残る—微笑みで笑んだまま、ゆっくりと首を縦に振った。
ヴェルナーは『もう大丈夫、心配ないよ。』という意味を込めて、再び微笑んだのだった。
しかし、彼は自身の息子がクリストフであってクリストフではないとはつゆとも思わなかっただろう。
エアハルト=ブライトクロイツ、それが今の彼の名前だった。
そしてヴェルナーは視線を下に落とす。その先にいるのは、先ほどまで彼の息子を捕えていた研究所長。
研究所長は彼を怒りと悔しさの綯交ぜになった眼で睨み上げていた。
「しかし、これは身長からすれば、あまりにも軽すぎるぜ…一体何を——っと、オーデン所長、聞かせてもらおうか?」
「何を、だ?」
「閣下、ここにあるのは全て……死体です」
床に倒れていた子供たちの生死を確認していたアルノーの冷静な報告に、ヴェルナーは彼の方を振り向かずに頷いた。
「……そうか。で、お前たちは一体…こいつに、クリストフに何をしたんだ?それに、ここら辺の死体の山は一体何だ?」
前半は小さな呟きで、後半は研究所長への問い。
自分の息子である少年を背負ったまま、先ほどまでの様子とは一変、ヴェルナーの鋭い声が男に詰問する。
やっぱり、クリストフ以外の子供は死んでしまったらしい。
それに対する落胆の感情は拭えなかった。
「………」
「言え、……さもなくばお前を撃つ」
ガチャ、というなんだか重々しい音。
エアハルトがゆるりと解放されて自由になった首を音のした方へ巡らせば、ヴェルナーは「銃」という黒光りする塊を誰かに突きつけていた。
彼の知る「それ」よりは遥かに原始的にさえ思えたが。
誰か、というのは何となく分かった。
先ほどまで上体を支えていた人。「オーデン研究所長」と呼ばれていた。
それは、紛れも無い脅しだった。
「——私を、撃つのか?」
何処か余裕を感じさせる声。それにヴェルナーは器用にも右眉を上げてみせた。
しかし、オーデンに突きつけた塊は微塵も動かさない。
「…私を今撃てば、貴様が聞きたいことは永久に闇の中だ———撃てるか、この私を!?」
「あらゆる手段を使ってでもお前から全て聞き出した後射殺するだけだ———まあ、今話してくれれば殺しはしないがな。さあ…死にたくなければ、吐け」
ヴェルナーが凄んで再び脅しをかけると、オーデンはやや躊躇うような仕草を暫くした後、観念したらしく口を開いた。
「———っ薬物を…新開発の薬物の溶液の注射を一本だけ静脈に…投与したんだ。何もこの子だけじゃない、他の子たちにも投与したのさ……だが、この子以外は急性薬物中毒で意識不明になった」
「……で?首謀者は誰だ?」
ヴェルナーの静かな、けれど戸惑いを微かに含んだ声が問いかける。
その声の様子に『それもそうか』と納得したらしいオーデンは何処か悔しさを滲ませたかのような声で彼に答えた。
「地球連邦軍上層部から…依頼があって…。『地球の明るい未来を望むのなら、手を貸してほしい』と頼まれて、それで……っ」
それで、こんな事態になったのだとオーデンは言う。
地球の「明るい未来」とやらが、こんな状況の何処に生かされているというのか。
理解できなかった。
「所長、あなたは断ることができたのでは?」
アルノーの声がオーデンに突き刺さってくる。彼の問いは当然の問いだ。
ヴェルナーが銃を構えていた手を下ろし、銃をベルトに挟む。
「地球連邦軍上層部」という言葉を耳にした彼の顔がさっと一瞬のうちに翳る。
そして、静かにアルノーの隣へ移動する。
もちろん、クリストフを背負ったままだ。
「できなかったっ、私にはできなかった!!『君が手を貸してくれれば、この汚染されきった世界は救われるかもしれない』と言われたんだ…現状を思うと、可能性を考えると…私には、答えが一つしかなかった!!」
彼の瞳から涙が溢れて、やがて零れ出した。
絞り出すような、苦しそうな声で叫ばれた、彼の思考と純粋な思い。
その時の、彼の表情は陰であまりよく見えなかったが、ひどく陰鬱で悲愴な印象を受けた。
——優しさというものは、時として鋭い刃となって相手を傷つける事もあるのかもしれないな。
オーデン本人にその自覚が無いからこそ、このような事態が発生してしまったのかもしれない。
どちらにせよ、彼にはクリストフを殺す事なんかできなかったわけだ。
彼の優しさとクリストフが彼の「仕事」での唯一の生き残りであることがそれを阻んだんだ。
頭の片隅でヴェルナーはそんな事を考えていた。
それにしても……
思考は別の方向へ逸れていく。
「………チッ、あの老いぼれのくそダヌキどもめ…一遍あの世にでも逝って出直してきやがれ…っと、ああ、違う違う。一遍、性根から叩き直してやろうか…って、もう奴らの老い先短けえんだから叩き直しても無駄か」
ヴェルナーは憎悪を秘めた声音で誰にも聞こえないように呟いた筈だった……が、彼の腕の中にいるエアハルトには、それがばっちりと聞こえた。
「……………?」
「ああ、お前は気にしなくていいからな?——安心して寝な、疲れてるだろ?」
呟きが聞こえてしまったらしく、腕の中で小首を傾げるエアハルトにヴェルナーは苦笑じみた笑みを浮かべ、エアハルトの瞼に優しく手を翳して寝かしつけた。「父親」なんだなと思う間もなく、瞼に当たる大きな掌が温かくて、エアハルトはすぐに眠りに落ちてしまった。